原本URL:http://true-to-you.net/morrissey_news_150102_01
出版日:2015年1月1日
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連続殺人犯であるカーラ・ド・ロサンジェルスが、彼女の大いに無防備な対戦相手に対して、メキシコの闘牛場で今週、正当に角で突き刺されたのを見て、私は喜んだ。間違えてはいけない:「闘牛」なんてものは存在しない。一頭一頭の牛に与えられる苦痛と拷問と虐殺の裏には、公然に認められた計画と厳格な脚本が存在し、いかなる種類においても競争ではない。たとえこの競技がとても効率的に順序づけられているとしても、これが競争とか、戦闘だという幻想を抱く人がいる。そしてこの順序はあまりにも効率的なので、実際には、牛が「勝利」したときはいつでも、競争は「失敗」したと報道される。その競争が公正であるなら、どうして何かが失敗し得るのだろうか?マタドールが突然不利な状況になったときはいつでも、他のマタドールが大急ぎで彼/彼女の援助に駆けつけ、牛を突き刺す。同じように困難な状況になったとしても、牛は他の牛からの援助を受けることを許されていない。この理由により、この競技は人工的なものであり、知性が欠落した人間にしか魅力的に映らないと言える。
カーラ・ド・ロサンジェルスは、非人道的な欲求に突き動かされ、実際には彼女に全く脅威を与えない別の生き物を殺したいと思っている。そして死にかけている牛を出し抜こうという試みに今週失敗した後、ラジオに語ったコメントの中で、彼女は告白している:
「私は悲しい、なぜなら牛の耳を切り落とせなかったから。」
ねぇカーラ、どうか理解してほしい:私たちは悲しい、なぜなら牛が君の耳を持って行かなかったから。
ほとんどの観光ガイドは「闘牛」をスポーツと記載しているが、この競技に関する何一つ正々堂々としていない(“not sporting”)。そして現実の明白な事実として、それは旅行関連の出版物に「拷問」と記載されるべきである。知性を持った心には、それ以外の表現は適切ではないからだ。キューバ・グアンタナモ湾の米拘置所で行われる人間への拷問と同じように、牛への拷問はメキシコで僅かな雇用しか生み出さない。牛の拷問を見るためにお金を払う人がいるというのは、取るに足らない事実である。なぜなら、結局のところ、小児性愛は小児性愛者を楽しませると推定されるが、誰も小児性愛をスポーツと呼んだことはないからだ。
カーラ・ド・ロサンジェルスや彼女の共犯殺戮者であるヒルダ・テノリオとルピータ・ロペズの道徳的義侠の欠落は、メキシコの人々に潜む極めて最悪な側面を象徴している。そして私は、この女性3人の2015年が極めて最悪になることを願う。なぜなら極めて最悪こそが、彼女たちが支払うべき正当な代償なのだから。
これを読んでくれてありがとう。
モリッシー
2015年1月1日
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訳 : つながり眉毛
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