2016年2月20日土曜日

Andy Bell Interview / Premier Guitar (2016.02.08)



Premier Guitarというサイトに掲載された、Andy Bellのインタビューです。楽器との出会い、影響を受けた音楽、Rideのレコーディングなどについて語っています。当時のシューゲイザーについて詳しくない方も、楽しめて且つ勉強になる内容です。

リリース日:201628

以下、筆者による翻訳。

80年代後半、イギリスの大部分がアシッドハウスに没頭していた頃、新しい音楽が様々な大学都市で始まっていた。My Bloody ValentineDinosaur Jr.Spacemen 3などのノイズグループと、Cocteau Twinsに代表されるドリーミーなバンドに影響を受け、アート感覚を持ったミュージシャンたちは、ロックにアンビエントなギターを加え、新たな可能性を探った
パンクの「誰でもバンドが組める」というエゴとは無縁の哲学、ギター、ベース、ドラムの基本的な楽器編成、ドローンサウンドとメロディの融合。彼らは新世代のサイケデリック音楽を作った。しかし外部を遮断するような雰囲気は、足元のエフェクターに頼り過ぎという印象を与えた。更には俗物根性とまで批判された。音楽誌メロディメーカーは、既に始まっているパラダイムシフトに気付かず、彼らを「自分で自分を祝福する音楽シーン」「シューゲイザー」と名付けた。その創造性が数十年後も痕跡を残すことになるとは、当事者も含め、ほぼ誰も考えていなかった。しかしSlowdiveLushthe TelescopesDNAは、A Place To Bury StrangersMogwaiSigur RosYeah Yeah YeahsI Break Horsesといった現代のバンドにも受け継がれている。
オックスフォード出身のアンディベルがライドを結成したのは1988年。周囲と同じくノイジーなギターを身に纏っていたが、ボーカルのハーモニーと12弦ギターによって彼らは独特の存在になった。成功を収めた何枚かのアルバムの後、バンドは1996年に解散。その後10年間、ベルはオアシスのベーシストになった。
未だに絶大な影響力を持つファーストアルバム「Nowhere」は、201510月に25周年を迎えた。「90年代ベスト~」「最も影響を与えたアルバム~」などのランキング常連である。ブックレット、写真集、ベル執筆のライナーノーツ、更には初登場となるロンドンのタウン&カントリークラブでのライブを収録したDVDと共に再発される。
昨年4月、再結成したライドはコーチェラに出演、年末まで続くワールドツアーに乗り出した。バンドの歴史、シューゲイザーの発展、自身の進化、そしてお気に入りの機材について聞いた。

Q:ギターが最初の楽器だったのですか?
A:家にウクレレがあったけど、ハマることはなかった。9歳の誕生日に、ギターが欲しいと言ったよ。ナイロン弦のクラシックギターを買ってもらい、レッスンにも通った。でもすぐに飽きてしまった。叔父さんからコードを教えてもらい、フォークソングも弾けるようになった。でも全てが始まったのは1983年、ザ・スミスを初めてラジオで聴いたときだ。本当に素晴らしいサウンドで、すぐにカセットを買いに行った。気付いたらジョニーマーのギターをコピーしていたよ。

Q:マーは素晴らしいです。最初にコピーする対象としては、とても難しいと思いますが。
A:僕は「This Charming Man」をコピーしようとしていた。でも僕のバージョンを弾いていた、と言う方が正しいかな。もっと多くのコードを覚えなきゃと思った。クラシックの理論や楽譜を読む練習はしなかったけどね。だから僕のEコードは未だに間違っているよ。レッスンの講師が弾いたものを、僕は同じように弾いた。でも彼は「君は正しく弾いている。でもやり方は間違っている。なぜなら君は楽譜ではなく、耳で聞いているからだ」と言った。「正しく弾いているなら、やり方なんてどうでもいいじゃないか」と思った。楽譜を見ると、音楽的失読症みたいな気になる。でも耳で聞けば、簡単に理解できる。

Q:エレキギターを始めたのはいつですか?
A:クラシックギターでレコードに合わせて弾いていたら、やがて両親の友人がホフナーをくれた。黒くて、ピックアップが三つあって、ジャズマスターみたいに沢山のスイッチが付いていた。しばらくはアンプなしで弾いていた。そしてある日、地元オックスフォードのガラクタ市で奇妙なバルブ付きのアンプを見つけた。誰かの手作り品だったようだ。今にして思うと、かなり危ないよね()

Q:プロ仕様の楽器を手にしたのはいつですか?もともと欲しいものがあったのですか?
A:しばらくそのホフナーを弾いた後、サテライトの素晴らしい335モデルを手に入れた。ライド初期に使ったよ。そしてレコード会社と契約したとき、330360という二本のリッケンバッカー12弦ギターを買った。あとグレッチのテネシアン。ロンドンのデンマークストリートで全部いっぺんに買ったよ。マークはフェンダーのジャガーと、やはりリッケンバッカーを買った。彼はジョンレノンが使っていた小さいサイズを買って、僕はジョージハリスンやロジャーマッギンと同じ大きいものを買った。

Q12弦ギターに興味を持ったきっかけは、やはりビートルズでしたか?
A:もちろん、ビートルズの存在は大きかった。そしてジョニーマーも弾いていた。ハリスンとマーはかなり似ている部分があった。半分だけのコード、解放弦、メロディなのかリズムなのか判別できないフレーズ、カントリーみたいなピッキング、そして同じコードを何通りもの押さえ方で弾いていた。とても刺激を受けたよ。アコースティックでは、ポールサイモンが大好きだった。「Scarborough Fair」「Anji」を覚えたよ。難しかったけどね。

Q:それがライドのメロディックな面とギターサウンドのルーツだったのですね。攻撃的なノイズはどのように生まれたのですか?
A:当時周りにいたバンドから影響を受けた。そしてthe Whoの「My Generation」、ストーンズの「19th Nervous Breakdown」。あの曲のベースはノイジーで、下降していくリフが最高だ。そしてMy Bloody ValentineSpaceman 3Loopといった、僕たちの少し前から出てきたバンド。彼らにもノイズの要素があった。Sonic Youthの「Daydream Nation」には多大な影響を受けた。僕たちが最初に書いた曲はとてもイギリス的だった。ソフトでメジャーコードを使った、the SmithsFeltのような感じだった。でもSonic Youthを聴き始めた途端、僕たちはノイズを出し始めた。全てがより自由に、より芸術的になっていった。「Nowhere」や「Seagull」を聴けば分かる。My Bloody Valentineの影響は大きい。ベースの音、ギターの雰囲気、ドラム、プロダクション。僕たちはノイズに取り付かれていたのさ。

Q:当時、ポストカードレコードと契約することはなかったのですか?
A:最初のリハーサルで、Orange Juiceの「What Presence」を演奏した。僕たちはまだお互いをよく知らなくて、フィーリングを掴む必要があった。the Stoogiesの「I Wanna Be Your Dog」、New Orderの「Blue Monday」、the Smithsの「How Soon Is Now?」も演奏したよ。

Q:バンドのDNAは最初からあったのですね。
A:そうだね。でも厳密には、演奏を「試みた」だけだ()。コピーしていた曲は、やがて別の何かに変化していった。例えば「How Soon Is Now?」は「Drive Blind」に変化した。

Qthe Stoogiesはシューゲイザーのシーンで巨大な存在だったのですか?Swervedriverも彼らの名前を挙げています。
ASwervedriverは「Shake Appeal(the Stoogiesの曲名)」から生まれた。彼らは当時、オックスフォードで最も大きなバンドだった。誰もが知る、まさに恐怖の集団だった!彼らを通して僕たちはthe Stoogiesを知り、「1969」や「No Fun」に惹かれた。でも僕たちは一番簡単な「I Wanna Be Your Dog」を演奏した。

Q:あの曲はパンクロックにおける「Iron Man」のようです。抽象芸術からの影響は如何でしょうか?Mission of BurmaGang of Fourも、抽象芸術の影響を公言しています。
A:僕たちのうち三人はNorth Oxfordshire Technical College and School of Artに通い、視覚、知覚、脱構築といった考えを学んでいた。その理論を音楽に適用させるのは、自然な流れだった。学校で素晴らしい本にも出会った。ジョンバージャーの「Ways of Seeing」、ロバートヒューズの「The Shock of the New」は80年代後期の斬新な思考を体現していた。芸術とは何か、そして僕たちは芸術で何をするか、ということを考えたよ。でもバンドのビジュアルを作ったのは、芸術学校に通っていなかったスティーブだった。彼が全てのジャケット写真を見つけてきた。部屋にはいつもアートっぽい写真が飾られていたよ。ナスターシャキンスキーやソフィアローレンの写真を使って、バンドのチラシを作った。アートとセクシーな女優は当時、僕らの常用手段だった。「Nowhere」のジャケットに使った写真は、アルバム制作前から持っていた。あの写真を見ながらレコーディングしたよ。

Q:ジェリコ・タバーンは音楽シーンの中心地だったと聞いています。ライドもライブをしましたか?
A:多くのバンドにとって、初ライブはあそこだった。僕たちはまだ四曲しかなかったから、時間を埋める必要があった。後に「Drive Blind」の轟音パートになる、「Mind Fuck」という曲を演奏したよ。当時はそれ自体が一曲で、もっとゆっくりしたテンポだった。「Chelsea Girl」「Mind Fuck」を五分ずつやって、「I Wanna Be Your Dog」、そしてまた「Chelsea Girl()フルボリュームで演奏するのは最高だった。それ自体が刺激になる。PAを利用して、ボリュームとノイズを使ったアイデアの断片を作っていったよ。

Q:同じシーンにいた他のバンドに対して、親しみを感じていましたか?
ASlowdiveLushChapterhouseは友達だった。シューゲイザーではないけど、Blurとも親しかった。グラハムコクソンからレスポールやチョーキングの魅力を教わったよ。「Going Blank Again」に表れている。全てのバンドはお互いを尊敬し合っていた。ライバルではなく、同じ地下に属する仲間だった。My Bloody ValentinePrimal Screamとも仲良くなった。皆が同じ目的のために努力していたよ。

Q:ライドはエフェクターを多用していたことでも有名です。初期の頃からそうでしたか?
A:使っていたけど、当時はシンプルだった。ボスの小さなマルチエフェクターを持っていたよ。ディレイ、コーラス、ディストーション、あと何か一つ入っていたな最大の衝撃はワウペダルだった。すぐにハマって、ずっと使っていたよ。今ではソロのブースト的に使っているけどね。ワウペダルで自分のスタイルを掴んだ。踏み込むほどに、段階的に盛り上がるのさ。

Q:「Nowhere」では、自分たちの美学をスタジオで追及しましたか?
A:最初のEPはデモの継ぎ接ぎだった。二枚目はスタジオに入って作った。四曲を完成させた後、フルアルバムに向けたジャムセッションを始めたよ。結局そのレコーディングからは何も使わなかったけどね。僕たちはコンソールで長い時間を過ごし、曲をコントロールするようになった。EPのレコーディングでは、エンジニアと口論になった。僕たちは間違っていると見られていた。やがてマークウォーターマンに出会った。僕たちが「Nowhere」の準備をしていたEMIスタジオで働いていて、同い年だった。彼となら上手くいくと分かった。彼は決してNOと言わない。むしろ「いいね、最高だよ!やってみよう!」と言ってくれる。「Nowhere」の功績によって、彼はエンジニアからプロデューサーに昇格したよ。ミキシングはアランムルダーがやってくれた。「Going Blank Again」は彼のプロデュースだ。あのアルバムは更なるステップアップになった。もっと多くの時間をコントロールルームで過ごし、Eventideのウルトラハーモナイザーをギターに使ったりした。スレーブのテープマシンを使い、逆回転やテンポ変化、二つの曲を繋げたりもした。「Nowhere」よりも、スタジオを楽器のように扱っていたよ。「Nowhere」はEPよりも洗練されているけど、核の部分ではリハーサルを捉えたものだ。

Q:ライブで再現するのは挑戦だったでしょうね。
A:一つの曲にはいくつものバージョンがあって、その中の一つがアルバムに採用される。ライブで演奏する際には、最初のバージョンに立ち返る。レコードと全く同じである必要はないよ。「Seagull」には複数のバージョンがあって、その中の一つがアルバムに採用された。でもライブでは毎晩のように変化していた。再結成のときにはアルバムを聴いたけどね。「Cool Your Boots」の出鱈目さを、もう一度学び直す必要があった。現在のツアーでは、新しい技術を利用しているよ。昔は自分たちの歌や演奏なんて聞こえなかった。ギターとドラムの轟音しか聞こえなかった。今ではイヤモニのおかげでクリアに聞こえる。昔よりずっと良い演奏ができているよ!

Q:コンパクトエフェクターへの回帰によって、ペダルボードはローテクになりましたよね。
A:最初の頃は、ボスのDS-1、クライベイビー、そしてローランドGP-16のラックマウントを使っていた。今はコンパクトエフェクターしか使っていない。ついに逆回転エフェクターも手に入れたよ。EventideTimeFactorを使えば、「Seagull」のイントロもレコードそっくりに弾くことができる。

Q:当時からずっと使い続けているギターはありますか?
A:リッケンバッカーの12弦ギターは二本とも使っている。「Seagull」や「Vapour Trail」をレコーディングしたギターさ。

Q:ギタリストとして、今後やってみたいことはありますか?
A:まさに今、巨大なモジュラーシンセを作っている。ギターを繋いでCVコントローラーのように使える。ニューヨークのSnazzy FXが作ってくれた。モジュールを学ぶのは楽しいよ。Make NoisePhonogeneがお気に入りさ。とてもワクワクしている。これを使ってレコーディングした音楽をリリースするつもりだ。

2016年2月7日日曜日

Trent Reznor Interview / Rolling Stone (2016.01.29)


同じく米Rolling Stone誌に掲載された、Nine Inch Nailsのトレント・レズナーによる追悼文です。幼い頃からのファンであり、ボウイと共にツアーした彼の想いが溢れています。

リリース日:2016126 
URLhttp://www.rollingstone.com/music/news/trent-reznor-recalls-how-david-bowie-helped-him-get-sober-20160126 

以下、筆者による訳。

ボウイのアルバムは、一枚一枚全てに思い出があるよ。レコードの全盛期、僕はよく友達の家に行き、彼が地下室に保存していたコレクションを聴いた。最初にハマったのは「Scary Monster」だった。そこから遡って、ベルリン三部作も聴いた。すごい衝撃だった。90年代の初頭、僕は観客とステージに立っていた。完全なるボウイ信者になっていたよ。彼にまつわる全てを読み込んだ。歌詞に隠れたヒント、謎めいた写真、雑誌の記事。僕にとって彼はどういう存在か?彼の音楽を通して、僕は自分と関わり、自分が誰なのかを理解した。何が実現可能で、何がエンターテイナーの役割なのか。そして、この世にルールなど無いと教えてくれた。まるで啓示だったよ。

そして90年代の中頃、彼から連絡を受けた。「一緒にツアーしよう!」どれほど光栄で非現実的だったか、とても言い表せないよ。実際に会った彼は、嬉しいことに、僕の期待を遥かに超える人物だった。魅力的で、お茶目で、満たされていて、勇敢だった。また新たな刺激を与えてくれたよ。

リハーサルに入り、どのようなツアーにするか話し合った。正直に言って、複雑な気持ちだったよ。当時の僕たちは、北米で彼よりも売れていた。でもデヴィッド・ボウイが前座をやるなんてあり得ない。彼は言った。「僕は人々が求めている曲を演奏しない。実は奇妙なアルバムを完成させたばかりなのさ。僕たちはベルリン三部作と、そのアルバムの曲を演奏する。望まれていることではないけど、やらなきゃいけないことだ。そして君たちなら、僕を毎晩驚かせてくれると信じているよ」噂に聞いてきた、彼の勇敢さを目の当たりにしたのさ。

全てのステージを一つの流れにした。まず僕たちが演奏する。次にデヴィッドが加わり、「Subterraneans」を一緒に歌う。彼のバンドも出てきて、全員で演奏する。そして僕たちはステージから降りる。ボウイが隣で「Hurt」を歌ってくれたことは、人生で最高の瞬間だ。最大の影響を与えてくれた人が隣にいて、僕がベッドルームで書いた曲を歌ってくれたんだからね。

彼に対する反応は、苦々しいものだった。真夏の野外ライブで、32オンスのビールを飲んだ観客は「Changes」を求めていた。ステージで繰り広げられる芸術作品ではなくてね。でも彼はやりたいことをやった。とても印象的だった。人々に見てもらい、お金を貰うとき、僕は今でもこの体験について考える。

当時の僕はメチャクチャだった。バンドの人気がピークに達していた頃で、僕の人格は破壊され、手に負えなくなっていた。僕に対する人々の接し方が変わった。ガス代すら払えなかったのに、いつの間にか満員のアリーナに立っていた。しかも彼らは僕のことを知っていると思い込んでいる。ステージ上の自分と、かつての自分との境目がぼやけ始めた。毎日を乗り切るために、僕はドラッグと酒で自分を麻痺させた。気が大きくなって、何でも対処できそうに思えた。バンドは巨大化したけど、人間としての僕を支える足場は壊れ始めた。どこまで悪い方向に進んでいるかは分からなかった。でも心の中では、こんなことが続けられるはずがなく、自己破壊に向かっていると理解していた。

僕が会ったとき、デヴィッドは全てを乗り越えていた。幸せで、満たされていた。彼の人生は平和で、素晴らしい奥さんがいて、愛し合っていた。彼と僕が二人きりになると、叱るわけじゃないけど、知性溢れる言葉を与えてくれた。「もっと良い生き方がある。最後に待ち受けているのは、必ずしも悲しみや死じゃないよ」

それから丸一年後、僕はどん底に落ち、全てから足を洗った。それまでに僕がとった行動、損なってしまったチャンス、そして周囲に与えた損害に気付いた。そしてデヴィッドと一緒にいた時期を思い出して、自分が100%の状態じゃなかったことを悔やんだ。「I’m Afraid of Americans」のビデオには、最悪だったときの僕が映っているよ。頭がいかれていて、自分という人間を恥じていた。だからあのビデオを見ると、複雑な気持ちになる。関わることができて光栄に思う一方、当時の自分には心底うんざりしている。未だに悔やんでいるよ。

数年後、ボウイはLAにやって来た。僕はどうしても彼に感謝したかった。妙に恥ずかしい気持ちで楽屋を訪れ、「お久しぶりです。僕はあのとき床に嘔吐した」と言った。その瞬間、僕は再び、温かくて優雅な愛情に包まれた。「あなたに伝えたいことがあります。僕は全てから足を洗って」僕が言い終わる前に、彼は強く抱きしめてくれた。「分かっていた。君ならできると僕には分かっていた。君なら抜け出せると信じていた」思い出すと今でも鳥肌が立つよ。僕の人生における、もう一つの最高の瞬間だ。

僕たちにはまだ、一緒にやることが残っていたと思う。彼は人生の相談相手であり、僕を気にかけてくれる父親のようだった。愚かさに溢れ、レベルが下がる一方の世界でも、偉大で妥協しない意思は生き続けることができる。彼はそう思わせてくれたのさ。

Bono Interview / Rolling Stone (2016.01.29)



129日に発売された米Rolling Stone誌のデヴィッド・ボウイ追悼号に掲載された、ボノのインタビューです。感動的ですよ。

リリース日:2016127
URLhttp://www.rollingstone.com/music/features/bono-remembers-david-bowie-he-is-my-idea-of-a-rock-star-20160127 

以下、筆者による訳。


僕はロックンロールスターのフリをしているけど、実際は違う。デヴィッド・ボウイこそが、僕の考えるロックスターだ。僕は今ミャンマーにいて、彼の死に対する世間の反応からは、少し切り離されている。でもスターマンがいない今、この空は以前よりずっと暗く見えるよ。

初めて彼を見たのは1972年のTOP OF THE POPSだった。彼は「Starman」を歌っていた。生気に満ち溢れ、聡明で、鮮やかだった。当時、僕の町に初のカラーTVがやって来た。そして彼こそが、カラーTVが必要な理由だった。僕たちの時代にとっては、彼がエルヴィスだった。多くの共通点があるよ。男らしさと女らしさの両立。完璧なステージ上の身のこなし。彼らは最初の輪郭を作ったのさ。今では当たり前になっているけど、彼らより以前には存在しなかった。

彼ら二人には、別世界からやって来たような雰囲気があった。ボウイと一緒にいれば、その世界に通じる扉と出会えるかもしれない。そんな漠然とした予感があった。「Life on Mars?」は10代の僕に対し、地球上の生命について問いかけていた。僕たちは本当に生きているのか?本当に地球がこの世の全てなのか?
ボウイが開けてくれた扉のいくつかは、他のアーティストに続いていた。ベルトルト・ブレヒトやウィリアム・バロウズ。そして彼が早くから注目していたブルース・スプリングスティーン。そして僕にとって最も重要な扉は、ブライアン・イーノだった。

自分をデヴィッドの友達と考えたいけど、どちらかといえばファンだね。「Achtung Baby」をミックスしている最中に彼はやって来て、ベルリンやハンザスタジオを紹介してくれた。僕たちは冗談を言い合った。ときには度が過ぎて、お互いを傷つけ合うこともあった。彼は自分の娘をスパイダーマンのミュージカルに連れて行った後に、気に入らなかったところを教えてくれた。彼のアドバイスは助かったよ。公演が始まったばかりの頃だったからね。

ここ最近、僕はブライアン・イーノとコンタクトをとっている。彼はデヴィッドからお別れの手紙を受け取って、僕にも見せてくれた。とても素晴らしい、面白い手紙だった。非現実的で、大胆で、まるで逃げ出す直前のようだった。ブライアンも僕も、亡くなる少し前からデヴィッドのことを考えていた。クリスマス休暇の間ずっと、長女のジョーダンと僕は「Blackstar」を聴いていた。彼女は2歳のときにデヴィッドと会った。彼からピクシーと呼ばれていた。そして生涯にわたる彼のファンになったのさ。

ボウイにはポップスターとピカソの二面がある。その丁度中央にいるときの彼が好きだ。曲自体はコントロールされているけど、録音はコントロールされていない。大衆主義と芸術の双方に、均等に接近しているときだ。「Blackstar」はかなり芸術寄りの作品だから、本来なら僕は気に入るべきじゃないのかもしれない。でも僕もジョーダンも本当に大好きだよ。

今年は彼女と二人で、彼の誕生日をお祝いした。そのときの写真を彼に送ったよ。長いメールと共にね。「Love and Fear」というマイケル・レウニグの美しい詩も付け加えた。「この世には二つの感情しか存在しない。愛と恐れだ」という一文がある。彼からの返事はなかったけど、僕のメールを受信してくれたとは聞いている。

作曲家や歌手として、究極的には、思考と感情が僕たちの強みだ。オリジナルな思考を持っていそうな人がいても、その音楽が持つ風景は大して独特じゃない。でもボウイの音楽が持つ風景は、他の音楽とは全く異なる方法で、僕たちに影響を及ぼす。目を閉じて、言語を忘れ、曲を感じ取る。「僕のどの部分が演奏されているのだろう」「その部分は、他の人にも演奏できるだろうか」と考える。

答えはノーだ。僕のある部分は、デヴィッド・ボウイにしか演奏することができない。だから今、その部分は空っぽだ。他のやり方で目覚めさせるしかないようだ。でも僕が14歳のとき、その部分は確かに一度目覚めたのさ。