1999年に、デビッド・ボウイは米・バークリー音楽大学から名誉博士号を授けられました。その際に彼は特別に、卒業式の訓示を述べました。自分にとって音楽がどういうものか、一緒に仕事をしてきた人たちに触れながら、ユーモアたっぷりに話しています。
以下、筆者による翻訳。
ありがとうございます。ロック、ジャズ、サンプリング…昨夜は素晴らしいコンサートでした。自分たちの曲が皆さんの耳と能力を経由したものを聴いて、ウェイン(・ショーター)と私はとても感動しました。まるでダイナマイトのような威力でした。私たちがどれほど感謝しているか、言葉にはできません。
私は昨夜、何人かの学生と話しました。その中の一人に、今日のスピーチを始めるに相応しいジョークと、彼にとって最大の恐怖体験を聞きました。
「両方いっぺんに答えましょう。チューバ奏者はどうやって電話に出る?はい、ドミノ(・ピザ)です」
ところで、妻と私はこの後、リトル・スティービーズ(地元のピザ屋)に行く予定です。皆さんもご一緒にどうですか?二軒目はダンキンドーナツですよ。
実はここに、リーヴス・ガブレルズからの伝言があります。本校の卒業生であり、私がかつて一緒に仕事をした音楽家です。彼はこう書いています。
「まだ払っていない授業料900ドルを忘れたわけではありません。19年前、ティン・マシーンの頃からずっと払っていないことも分かっています。私のために、大学側が未だに請求書を保留してくれていると、最近雑誌で読みました」
これで30ドル分くらいは帳消しにしてあげてください。
今、このような状況ではいつもそうですが、何をすべきか困ってしまいます。私の音楽家/作家としての人生は、常にそうでした。「もし痒いなら、医者に診てもらえ」私が他の音楽家に与える助言です。しかし今日は何の役にも立ちそうにないですね。
ブライアン・イーノはかつて、自らを非音楽家と表現しました。実際に彼は、パスポートの職業欄にそう記載しようとしました。
「(税関職員をまねて)非音楽家?レコードを作っているのですか?」
「(ブライアン・イーノをまねて)もちろん作ったことはないです。私は非音楽家ですから」
私も少しだけ、自分のことを非音楽家と考えています。かつてバリトンジャズ奏者のロニー・ロスからレッスンを受けたことがあります。14歳だった私は、電話帳で彼の番号を発見し、すぐに連絡しました。親切な彼は、私に会ってくれました。一緒にリトル・リチャードの映像を見た後、彼はジョージ・レッドマンの曲を教えてくれました。60年代の西海岸バンドです。皆さんはご存じないかもしれません。楽譜には「ビデュブデュビデュプバデュビップ」とありました。
その「ビデュブデュビデュプバデュビップ」は、私が演奏し始めると「ブズーデュズーズー」になりました。その瞬間、忠実であることや、ナチュラルであることは、私の強みではないと確信しました。私が最も得意なこと、楽しめることは「もし~ならどうだろう?」という遊びです。ブレクト・ウェイルのミュージカルをR&Bと融合させたらどうなる?フランスのシャンソンをフィリーサウンドに移植したらどうなる?シェーンベルクをリトル・リチャードの隣に置いたらどうなる?ハギスとカタツムリを同じ皿の上にのせたらどうなる?まぁ最後のは明らかにNGですが、いくつかのアイデアは上手くいきました。
やがて私はサックス、ギター、そして「作曲家のピアノ」を学びました。皆さんのような、由緒正しき音楽家に私のアイデアを伝えるためです。そして私は、それまでロックが含有していた情報を変えるための改革を始めました。私はコルトレーン、ハリー・パーチ、エリック・ドルフィ、ベルベットアンダーグラウンド、ジョン・ケージ、ソニー・スティットを敬愛していました。しかし不幸なことに、アンソニー・ニューレイ、フローレンス・フォスター・ジェンキンス、ジョニー・レイ、ジュリー・ロンドン、伝説のスターダスト・カーボーイ、エディット・ピアフ、そしてシャーリー・バッシーも大好きでした。
ジギー・スターダストの頃、私たちはよく「ワーキングマンズクラブ」と呼ばれる場所で演奏しました。ナイトクラブみたいなものですが、安い食事が出るため、家族全員が訪れます。彼らはビールを飲み、ロックバンドとストリッパーを見ます。バンドとストリッパーが同時にステージに立つこともあります。ある夜、楽屋にいた私はトイレに行きたくなりました。当時の私は、東京の宇宙少年みたいな美しい戦闘服を着て、鼻血を引き起こすような厚底の靴を履いていました。
「トイレはどこですか?」
「あの廊下を見ろ。壁の先に流し台があるだろう?そこだよ」
「えぇ?流し台にオシッコなんて出来ませんよ」
「よく聞け。シャーリー・バッシーもそこで用を足した。お前にとっても十分なはずだろう?」
悪趣味なものと良質なものを混ぜ合わせると、面白いものができる。私はそれを学びました。フォーク歌手も、R&B歌手も、バラード歌手も、私にはしっくりきませんでした。それぞれを突き詰めるのではなく、それぞれを象徴するものを操作することに私は惹かれました。50年代のポップ・アートと同じです。そして70年代初めには、イギリス作家のサイモン・フリックが「アート・ポップ」と呼んだものを、私は作っていました。
私がどう感じるかではなく、周りの人がどう感じているか、それが重要でした。分かり易く言えば、私はロックンロールにイギリス人の居場所を見つけました。何を今更、と思うかもしれません。でも私は未だに、曲のエンディングのソロがフェードアウトしていくとき、急いでプレーヤーに駆け寄り、ボリュームを上げます。そして最後の一音まで聴きます。それが私の人生です。
私にとって最大の相談相手はジョン・レノンでした。彼なくしてポピュラー音楽を語ることはできません。ポップの生地を捻じり、折り曲げ、他のアートに染み込ませる。そうすればとても美しく、力強く、そして奇妙なものが生まれる。ジョンは私にそう確信させてくれました。誰に頼まれたわけでもないのに、ジョンはどんな話題にも延々と怒り続けます。生まれながらにして、意見に満ちていました。私はすぐに共感を覚えました。私たち二人が揃うときはいつでも、「クロスファイア」のビーバス&バットヘッドそのものでした。
ジョンの魅力はそのユーモアでした。私たちは1974年に、あのエリザベス・テイラーから紹介されました。私は彼女から、一緒に映画を撮ろうと言われていました。ロシアに行き、赤くて金色で透明なものを着ようと言われていました。決してそそられる話ではありません。映画の名前は忘れてしまいました。「波止場」でないことは確かです。
エリザベスがLAで主催したパーティに、ジョンと私は招待されていました。そのときは二人とも、何と言うか、大人びた対応でした。私たちが一緒にいたのは数年間でしたが、ロックンロールの世界では、それは一世代に値します。
ジョンは「(リバプール訛りをまねて)おぉ、新顔がやって来たぞ」と言いました。私はこう思いました。「ジョン・レノンじゃないか!何を話せばいいのか?ビートルズの話題はダメだ。バカみたいに思われてしまう」
「やぁデイブ!」「あなたのレコードは全て持っていますよ!ビートルズ以外はね」
数日後、私たちはグラミーの舞台裏にいました。私はアレサ・フランクリンにあるモノを渡す役割を与えられていました。出番の前、私はジョンに相談しました。アメリカは私が行ったことを正しく理解していない、私は誤解されている…当時の私はまだ20代で、頭も変だったのです。
出番が来て、私は封筒を開き「受賞者はアレサ・フランクリンです!」と発表しました。アレサが舞台に上がってきて、私の方をあまり見ずに、私からトロフィをひったくりました。
「皆さんありがとう!デビッド・ボウイにキスできるなんて本当に幸せ」
でも彼女はキスしませんでした!彼女はくるりと回って、ステージ右側に悠々と去っていきました。そして私は左側にコソコソ逃げていきました。
ジョンは私のところに飛んできて、芝居じみたキスとハグをくれました。
「デイブ、分かったろう。アメリカは君を愛しているのさ」
私たちはそれから、どんどん仲良くなりました。
有名な話ですが、彼はかつてグラムロックを「ロックンロールに口紅を塗っただけ」と表現しました。もちろんそれは間違っています。でも面白い表現だったのは確かです。
70年代の終わり頃、何人かで香港に行きました。当時主夫だったジョンは、ショーンに世界を見せたいと思っていました。裏通りを歩いていると、少年がやって来て「あなたはジョン・レノン?」と聞きました。すると彼は「違うよ。でも彼のお金は欲しいなぁ」と答えました。
素晴らしい受け答えです。少年は「ごめんなさい」と言って去っていきました。
数か月後、私はニューヨークに戻り、ソーホーを歩いていました。すると甲高い声で「あなたはデビッド・ボウイ?」と聞かれました。私は「違うよ。でも彼のお金は欲しいなぁ」と言いました。
「この嘘つきめ。お前は俺の金が欲しいんだろう」
それはジョンでした。
今ご紹介したのは、私の人生におけるほんの一部です。そして今この瞬間は、間違いなく皆さんのものです。この10分間、私の好きに喋らせて頂き、ありがとうございました。皆さんにとって、少しは面白かったことを願います。
40年間にわたり、音楽は素晴らしい経験を与えてくれました。音楽によって、人生の痛みや悲劇が消えたとは言えません。でも私が一人ぼっちだったとき、人々と関わり合う機会を与えてくれました。私が人の温もりを欲していたとき、最高のコミュニケーションツールとなってくれました。音楽は私の感性を開く扉です。そして私が今でも住み続けている家です。
音楽は私に対して、元気な人生の活力を与えてくれました。皆さんにとってもそうなるよう、祈っています。本当にありがとうございました。そして最後に「もしウズウズしたら、とにかくやってみる」ことを覚えていてください。
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