Red Bull Music Academyのホームページに掲載された、RideのAndy Bellによるエッセイ(?)です。自分のルーツとなった音楽や、レコードのジャケットに関するこだわりを語っています。
掲載日:2015年9月1日
URL:http://daily.redbullmusicacademy.com/2015/09/origin-stories-ride?linkId=16708355
掲載日:2015年9月1日
URL:http://daily.redbullmusicacademy.com/2015/09/origin-stories-ride?linkId=16708355
以下、筆者による翻訳。
僕は70年代にオックスフォードで育った。両親は四枚のポップアルバムを持っていたよ。ビートルズとサイモン&ガーファンクルだった。60年代中頃に、当時大学生だった父親が買ったものだ。ビートルズは「With the Beatles」「A Hard Day’s Night」「Beatles for Sale」の三枚。母親のダンセット製プレイヤーで繰り返し聴いたよ。残りの一枚は「Bridge Over Troubled Water」だった。
最初に刺激を受けたのは「The Only Living Boy in New
York」だったかな。ソフトで壮大な、サイモン&ガーファンクルの素晴らしい曲だよ。巨大なリバーヴが支配していて、メロディは本当に美しかった。衝撃的な体験だったよ。
でも本当にハマったのはビートルズだった。クリスマスと誕生日のお小遣いを貯めて、彼らのレコードを買ったよ。父親が地元のレコードフェアに連れて行ってくれた。ある年のクリスマス、貯め込んだお金を握りしめて、彼らのアルバムを一気に六枚買った。最高だったね。まだ10歳の頃さ。
英国ではクリスマスの時期(クリスマスイヴ、クリスマス、ボクシングデイ)に、毎晩テレビでビートルズの映画が流れた。僕の世代は誰もが覚えているよ。当時の子供たちは皆ビートルズに夢中だった。60年代の子供たちと同じようにね。僕は既に彼らのファンだったけど、そうじゃなかったとしても、あの映画は大きなきっかけになったと思うよ。
当時のバンドも、何かと言えばビートルズを引き合いに出していた。例えばザ・ジャム。僕は10歳のとき、彼らのシングルを買い漁っていた。そのうちの一曲は、「Tax Man」のコードを基にしていたよ。
突如として、現代のポップ音楽がビートルズのようなリフを弾き始めていた。僕は彼らのルーツを遡った。ビートルズが解散してから、まだ15年だった。彼らは英国文化の大いなる一部だ。決して消え去りはしないよ。
親友のリチャードも、同じような道を進んでいた。彼にはお姉さんがいた。彼は「Strawberry
Fields Forever」のレコードを手に持って、「これを聴いてみろよ。ヤバいぜ」と言った。僕はまだ11歳か12歳だったと思う。曲が流れた瞬間、「狂っている!これがビートルズ!?」と驚いたよ。僕が知っている彼らの音ではなかった。そして後期のアルバムも聴き始めた。リリース順に辿っていったよ。
ビートルズ関連の本も読み漁った。ハンター・デイヴィスによる伝記は、当時出回っていた主な本の一つだった。もしかしたら、出回っていた唯一の本かもしれない。それは69年のところで終わっていた。ホワイトアルバムの直後くらいかな。四人バラバラのチャプターで締めくくられていた。それぞれが自らの道を歩み始め、翼を広げていったと書かれていた。
やがて僕はマーク・ガーデナーと遊ぶようになった。二人ともザ・スミスのファンだった。僕は彼らのリフを少し弾くことができた。マークは「なぁ、あのスミスの曲をどうやって弾くか、俺に教えてくれよ」と言ってきた。僕は「もちろん、学校が終わったら僕の家に来いよ」と返したよ。そうやって一緒に演奏するようになった。その頃から既に、僕らはバンドだったよ。まだ大学卒業までには1~2年あったかな。
友達のダレンには、スティーブというお兄さんがいた。彼はタスカムの4トラックレコーダーを持っていた。彼の家へ行くためなら、どんな言い訳でも使ったよ。僕はこのレコーダーに魅了された。最終的には自分で買うことになったよ。
でも当時は、貯金なんてしていたら、いつになるか分からなかった。その夏はずっとスティーブの家にいたよ。彼は年上で、インディーズを扱っているレコード屋で働いていた。色々と家に持ち帰って、僕たちに聞かせてくれた。アイデアを吸収したよ。そして僕らはオリジナルのカセットを作った。その店には僕自身、スミスのレコードを買うために通ったよ。彼らのレコードは全て手に入れたかった。その次はストーン・ローゼスだった。
スミスとローゼスのジャケットには意思があった。作品全てが一つのシリーズだった。ライドも大きな影響を受けたよ。最初の何枚かは、花のイメージで統一した。どれも全く同じ写真だ。色を変えただけだよ。赤色、灰色、青色。「Nowhere」は青い海で、その次のレコードではサメが顔を出している。そこから先は別の方向に行ってしまったけどね。スミスはモノトーンしか使わなかった。僕たちもテーマを設けて、全てを結びつけた。今でも素晴らしいやり方だったと思う。
ライドには最初から決まり事があった。マニフェストのようなものさ。僕らは自分たちの痕跡を残したかった。
4ADからは常に影響を受けていた。彼らもやはり、ジャケットを美学の一部と捉えていた。バンドの情報は載せず、全体のイメージを重視していた。僕たちもそれに倣ったよ。メンバーや作詞作曲のクレジットは載せなかった。Aサイド、Bサイド、曲目もね。そしてアルバムにシングル曲は入れなかった。これも僕らが決めたルールだ。
契約するレーベルとしては、彼らが真っ当な選択肢だった。クリエーションは明らかに直球過ぎるだろう?自分たちがオファーを受けるなんて信じられなかった。だから声をかけられたとき、「うわぁ、マジかよ!」という感じだった。でもとにかくやってみよう!と思ったのさ。
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