2016年7月23日土曜日

Bob Dylan Speech / MusiCares Award (2015.02)



MusiCares Foundationというアメリカの財団が、毎年一人のミュージシャンに対し、MusiCares Person of the Year Awardという賞を授与します。2015年度はボブ・ディランが選ばれ、記念のイベントが行われました。ブルース・スプリングスティーンやシェリル・クロウなど、豪華なミュージシャンがディランの曲を歌い、式の最後にディラン本人がスピーチをしました。アーティストとしての人生を振り返りながら、様々な人に謝辞を述べ、少し毒も振りまいています。ディランらしい素晴らしいスピーチです。

リリース日:201526

以下、筆者による訳。

この壮大なイベントを企画してくれた方々に、感謝を申し上げます。ニール・ポートナウ、ダナ・タマルキン、ロブ・ライト、ブライアン・グリーンバウム、ドン・ウォズ。そしてカーター大統領にも感謝します。既に夜も遅く、長々と話したくはないですが、幾つか申し上げましょう。

私の曲がこのように称えられることは光栄です。ここに至るまでは長い道のりでした。私にとって、これらの曲はミステリー演劇を思わせます。シェイクスピアが幼い頃に見たであろうものと似ています。ある意味では、起源はそこまで遡ります。私の曲は今も昔も、大通りから外れた所で生きています。そして厳しく辛い道のりを越えてきました。

何人かの方々をご紹介しましょう。ジョン・ハモンドは偉大なタレントスカウトであり、私をコロンビアに導いてくれました。私がまだ誰でもなかった頃、彼のおかげで契約できました。彼には自信がありました。周りから笑われても、彼は自分を信じ、常に勇敢でした。そんな彼の態度に、私は永遠に感謝します。私と出会う前、彼はアレサ・フランクリン、カウント・ベイシー、ビリー・ホリデイを発掘しました。皆、コマーシャルとは正反対のアーティストです。ジョンは流行に興味を持たず、私の才能だけを信じ、私の傍にいてくれました。

リードミュージックを経営していたルー・リーヴァイは、私が最初に書いた数曲を出版してくれました。彼の会社とは短い関係でしたが、リーヴァイとの付き合いは続きました。私はテープレコーダーに向かって歌い、彼が録音しました。私のやっていることには前例が無いと、彼はハッキリと言いました。私は時代の遥か先にいるか、既に取り残されているかのどちらかであると。もし私が「Stardust」のような曲を持っていっても、彼は受け取りませんでした。大衆が私に追いつくまでに、35年はかかるだろうと言いました。だから覚悟しておけと。そしてその通りになりました。しかし彼は私を励まし、上から判断しませんでした。私はそれをいつまでも忘れません。

ルー・リーヴァイの次に私が契約したのは、ウィットマークミュージックのアーティ・モーグルでした。何があっても曲を書き続けろと彼は言いました。私はどこかへ向かっていると後押ししてくれました。そして私が新しく書いた曲をすぐに聴いてくれました。それまで私は、自分をソングライターとすら思っていませんでした。彼にも私は永遠に感謝します。

早くから私の曲を歌ってくれたアーティストもご紹介します。それらの曲から彼らが感じ取ってくれたことは、きっと正しかったのだと思います。私はピーター・ポール・アンド・マリーには感謝しています。彼らがグループになる前から、私は全員を知っていました。自分が他人のために曲を書くなんて、全く考えていませんでした。しかし彼らは私の曲を歌ってくれた最初のアーティストでした。アルバムの中で埋もれていた曲を取り上げ、ヒットさせました。私とは全く違う方法で歌いました。彼らはその曲を真っ直ぐにしました。それから何百もの人々が歌いました。しかし彼らがいなかったら、そうはならなかったでしょう。彼らのおかげで、私にとって重要な何かが始まりました。

ザ・バーズ、ザ・タートルズ、ソニー&チャー。彼らは私の曲をトップ10ヒットにしました。私はポップソングライターではありませんでした。なりたいとも思いませんでした。しかし彼らが成し遂げたことは良かったのでしょう。彼らの演奏はまるでTVコマーシャルのようでしたが、私は構いませんでした。50年後、私の曲は実際にコマーシャルで使われました。それもまた良かったです。

メーヴィス・ステープルズとステープル・シンガーズ。スタックスとの契約前、彼女たちはエピックのアーティストでした。実際に会ったのは6263年の頃です。私のコンサートを見たパーヴィスは何曲かを気に入り、ステープル・シンガーズとレコーディングしてくれました。私はずっと、彼女たちのようなアーティストにこそ、自分の曲を歌ってほしいと願っていました。

ニーナ・シモン。ニューヨークのヴィレッジゲートにあるナイトクラブでよく会いました。私が目標とするアーティストでした。私の曲を教えると、彼女はそれらをレコーディングしました。圧倒的なアーティスト、ピアノ奏者、歌手でした。とても強い女性でした。率直で、ステージの上ではまるでダイナマイトでした。彼女が私の曲を歌ったという事実は、私が行っていることを正当化してくれました。ニーナのようなアーティストを、私は愛し、尊敬します。

そしてジミ・ヘンドリックス。彼がまだジミー・ジェイムズ・アンド・ブルー・フレイムズというバンドにいた頃、彼の演奏を見たことがあります。彼が自分で歌い始める前のことです。有名になった後、彼も私の曲を取り上げました。誰も気に留めていなかった小品です。彼はそれらを成層圏まで持って行き、クラシックにしました。彼にも感謝します。ここにいてくれたらと思っています。

ジョニー・キャッシュも早くから私の曲を歌いました。初めて会ったのは63年です。まだ彼がやせ細っていた頃です。彼の旅は長く厳しいものでした。まさに私のヒーローでした。私は彼の音楽を聴いて育ちました。自分の曲よりも身に染みていました。「Big River」「I Walk the Line」。「It’s Alright Ma (I’m Only Bleeding)」を書いたときは、「How High’s The Water, Mama?」が頭の中で繰り返し鳴っていました。私は今でも尋ねています。「水位はどこまで上がってきた?」と。

ジョニー・キャッシュは常に真剣でした。私がエレクトリックに転向して批判を浴びたとき、黙って歌わせてやれと人々を叱りつけました。ジョニー・キャッシュは徹底的な南部の世界から来ました。他人が何を歌おうと、何をしようと、誰も気にしない世界です。私は今でも彼に感謝しています。ジョニー・キャッシュは巨人でした。黒服の男でした。私たちが育んだ友情を、いつまでも大切にします。

ジョーン・バエズは今も昔もフォーク音楽の女王です。私の曲を気に入り、彼女のステージに招いてくれました。幾千もの人々が彼女の美貌と声に魅了されていました。彼らは「そのみすぼらしい浮浪者は何だ?」と言いました。彼女は「黙って曲を聴きなさい」と言い返しました。私たちは何曲か一緒に歌いました。ジョーン・バエズは強い心を持っていました。誠実で、自由な精神を持ち、自立していました。誰も彼女に何かを押し付けることは出来ません。私は彼女から多くを学びました。圧倒的な公正さを持った女性です。この身に余る程の愛と献身を、彼女は与えてくれました。

私の曲はどこからともなく出てきたものでも、でっち上げたものでもありません。全ては伝統音楽という先例から生まれました。伝統的フォーク、伝統的ロックンロール、伝統的なビッグバンドのスウィングオーケストラです。

私はフォークソングから歌詞を学びました。誰もフォークソングなど気に留めていなかった頃から、私はそれだけを歌っていました。そしてあることを理解しました。全てのものは、全ての人に属するということです。私はどこでも歌いました。クラブ、パーティー、バー、コーヒーハウス、フェスティバル。そして私と同じくフォークソングを歌う人たちと出会い、曲を教え合いました。一度聴いた曲は、一時間後には歌うことができました。

「ジョン・ヘンリーは鉄を動かす男だった。ハンマーを手にもったまま死んでしまった。『人間は人間以外の何者でもない』とジョン・ヘンリーは言った。『あの蒸気ドリルが俺の人生を突き落す前に、俺はハンマーを持ったまま死んでやる』」

この曲を何回も聴いたら、皆さんも「人は幾つの道を歩けばいいのだろう?」と書いていたでしょう。

ビッグ・ビル・ブロンジーは「Key to the Highway」という曲を歌いました。

「俺はハイウェイへの鍵を手に入れた。さっさと出発するよ。ここを走って出ていく。歩いたんじゃ遅すぎる」

そして私はこの歌詞を書きました。

「ジョージア・サムの鼻は血まみれ。福祉部門ですら彼に服を与えない。『どこへ行けばいい』と彼は哀れなハワードに道を尋ねた。『俺が知っているのはあの場所だけだ』とハワードは言った。『さっさと教えてくれ。俺はもう行かなきゃ』とサムは言った。ハワードは銃で方角を指し、『ハイウェイ61号を下って行け』と言った」

Key to the Highway」を私と同じくらい聴いたら、皆さんも同じことを書いていたでしょう。

「座って泣いていても仕方ない。少しずつ君は天使になる。舟を漕げ、舟を漕げ」

この曲を聴いて、私は「愛しき人よ、僕は舟を漕いでいく」と書きました。シェリル・クロウが先ほど歌ってくれた「Boots of Spanish Leather」です。

「綿花を摘め、綿花を摘め。白人の給料は一日10ドル。綿花を摘め。黒人の給料は一日1ドル。さぁ綿花を摘め」

この曲を繰り返し歌えば、「僕はもうマギーさんの農場では働かない」と書くことになります。もしロバート・ジョンソンが「僕のキッチンにおいで、もうすぐ外では雨が降るよ」と歌うのを何回も聴けば、皆さんも「A Hard Rain’s a-Gonna Fall」を書いたでしょう。

「さぁ皆さん寄っておいで」で始まる歌は沢山あります。数え切れないくらいです。「坊ちゃんたち寄っておいで、チザムトレイルで経験した悪夢のような話を教えてあげよう」「皆さん寄っておいで、フロイド・コリンズが辿った運命をお話ししよう」

「公平で優しい女性の皆さん、男との付き合い方を教えましょう。夏の朝に輝く星のように、彼らは現れては去っていくのです」

「皆さん寄っておいで。ならず者のプリティ・ボーイ・フロイド。オクラハマでは有名人。彼の話を教えてあげよう」

これらの曲を何度も歌い、私は次の歌詞を書きました。

「皆さん寄っておいで。あなたたちの周りを囲む水かさが増してきた。すぐに骨まで水浸しになるよ。もし時間が大切なら、すぐに泳ぎ始めることだ。さもなければ石のように沈んでしまうよ。時代は変わっているのだから」

皆さんも同じように書いていたかもしれません。ここに秘密は何もありません。全ては無意識のうちに行われました。フォークソングこそ、私が知っている全てでした。私にとってただ一つの大事なものであり、理解できたものでした。

「ディープエルムに行くときは、金を靴下の中に隠しておけ。そこの女たちは、君を危ない目に遭わせるよ」

この曲を歌えば、こんな歌詞が浮かぶでしょう。

「イースターの時期に、シウダーフアレスの雨に迷い込んだ。重力が増し、状況は好転しない。モルグ街でブレーキを踏んではいけないよ。そこの女たちは飢えている。君を酷い目に遭わせるだろう」

全ては繋がっています。複雑なことはありません。私はただ違う扉を開いただけです。同じことを、違うように言っただけです。特別なことではなく、自然なことをやっていただけです。しかし私の曲は人々を分けました。理由は分かりません。誰かは怒り、誰かは気に入りました。賛成派と反対派に分かれました。奇妙な状況でした。

私の曲を誰が何と思おうと、全く気にしませんでした。ただ書き続けました。変わったことをしているとは思いませんでした。境界線を押し広げただけです。確かに少しは常軌を逸していたかもしれません。しかし私は現実を詳しく述べていただけです。もしかしたら私は、押さえつけがたい存在だったかもしれません。でも多くの人が押さえつけがたい存在です。とにかくやっていくしかありません。ある意味では、全ては自ずと安定していきました。

ジェリー・リーバーとマイク・ストーラーは、私の曲を評価しませんでした。それでも構いませんでした。私も彼らの作品は大して好きではなかったです。「Yakety yak, don’t talk back」「Charlie Brown is a clown」「Baby I’m a hog for you」ノベルティ音楽です。真剣ではないです。ドク・ポーマスは私の曲を気に入ってくれました。彼の曲は優れていました。「This Magic Moment」「Lonely Avenue」「Save the Last Dance for Me」これらの曲は私の心に響きました。リーバーとストーラーよりも、ドクの祝福なら私はいつでも受けましょう。

アーメット・アーティガンも私の曲を評価しませんでしたが、サム・フィリップスは気に入ってくれました。アーメットはアトランティックレコードを設立し、素晴らしいレコードをプロデュースしました。レイ・チャールズ、ルース・ブラウン、ラヴァーン・ベイカー。これらが素晴らしいレコードであることに、疑いの余地はありません。しかしサム・フィリップスはエルビス、ジェリー・リー、カール・パーキンス、そしてジョニー・キャッシュをレコーディングしました。

彼らは人間の根幹を揺さぶった、急進的なアーティストたちです。先見と展望を持った革命家です。恐れを知らず、でも繊細な、表現と思考の革命でした。骨の髄まで急進的でした。全ての面において反逆者であり、衰えることのない曲を歌い、今でもその名は知れ渡っています。そう、私はサム・フィリップスの祝福なら喜んでいつでも受けます。

マール・ハガードも私の曲を評価しませんでしたが、バック・オーウェンズは気に入ってくれました。彼は私の曲を歌ってくれました。マールのことは尊敬しています。「Mama Tried」「Tonight The Bottle Let Me Down」「I’m a Lonesome Fugitive」。これらの曲は理解できますが、ウェイロンが「The Bottle Let Me Down」を歌う姿は想像できません。マールは大好きでしたが、バックとは違います。バック・オーウェンズは「Together Again」を書きました。この曲はベーカーズフィールドから生まれた、他の全てを凌駕しています。バック・オーウェンズとマール・ハガード、どちらの祝福を受けたいか?皆さんも考えてみて下さい。とにかくここで言いたいのは、私の曲は人々を二つに分けたということです。音楽の世界にいた人たちでさえもです。

評論家たちも同様です。彼らは最初から私の背後を狙ってきました。私だけ特別な扱いを受けました。私は歌えないと言われました。ゲロゲロ鳴いているだけ、まるでカエルだと言われました。なぜ彼らはトム・ウェイツに同じことを言わないのでしょうか?私の声はボロボロで、もはや歌声じゃないと言われました。なぜレナード・コーエンは同じことを言われないのでしょう?私は音痴で、曲を通して喋っているだけだと言われました。ルー・リードもそんなことを言われるのでしょうか?なぜ彼は何も言われないのでしょうか?私は一体何をしたというのでしょうか?神様、どうして?

声域がない?誰がドクター・ジョンにそんなことを言うでしょうか?舌が回らず、言葉遣いが間違っている?評論家たちはチャーリー・パットンやサン・ハウス、ハウリン・ウルフを聞いたことがあるのでしょうか?

私はメロディを滅茶苦茶にして、何の曲か分からなくしていると言われます。数年前、私はフロイド・メイウェザーとプエルトリコ選手の試合を見ました。誰かがプエルトリコの国家を歌いました。美しく、心がこもっていて、感動的でした。我らが国家の番になると、とても有名なソウル歌手が出てきました。そして曲の中に存在する音階と、存在しない音階、全てを歌いました。メロディを滅茶苦茶にする?一音節を15分間伸ばす?彼女は空中ブランコの選手みたいに、喉の体操をやっていました。

評論家はどこにいたのでしょうか?歌詞を滅茶苦茶にする?メロディを滅茶苦茶にする?大切にされている曲を滅茶苦茶にする?私だけが責められます。もちろん私は、自分がそんなことをしているとは思っていません。評論家がそう考えているだけです。

声が綺麗だと言われたとき、サム・クックは言いました。「ありがとう。でも声が測られる基準は、可愛いかどうかではない。大事なのは、真実を言っていると信じさせることができるかどうかだ」今度誰かの歌を聴くとき、考えてみて下さい。

時代は常に変わります。嘘ではありません。予期せぬものの到来に、備えていなければいけません。私がナッシュビルでレコーディングしていたとき、トム・T・ホールのインタビューを読みました。最近の曲について不平不満をたらしていました。それらの曲が何を伝えようとしているのか、彼には理解できませんでした。

トムはナッシュビルにおける最も卓越したソングライターの一人です。多くの人が彼の曲を歌い、自分でも歌いました。彼はジェームズ・テイラーに文句をつけていました。彼の「Country Road」という曲です。トムは言いました。「ジェームズは田舎道のことは何も言っていない。田舎道を走っているとき、どう思うかを言っているだけだ。理解できないよ」トムは偉大なソングライターだと言う人もいるでしょう。そこに疑いの余地はありません。このインタビューを読んでいたとき、ちょうど彼の歌がラジオから流れてきました。

それは「I Love」という曲でした。彼が愛するものについて歌っていました。人々の共感を促し、繋がろうとしていました。彼も皆と同じであり、また皆も彼と同じであると思わせようとしていました。私たちは皆同じものを愛し、皆一緒だと言っていました。小さいアヒルの子、ゆっくり進む列車、雨、ヒッチハイカーを乗せる昔ながらのトラック、田舎の山々にかかる霧、夢の無い深い眠り、グラスに入ったバーボン、カップに入ったコーヒー、枝付きトマト、玉ねぎ。彼はこういったものを愛していました。

私は決して、他のソングライターをけなすようなことはしません。本当です。この曲がダメだと言うつもりはありません。ただ少し度を超えているとは思います。しかしこの曲はトップ10に入っていました。トムと他のソングライター数人によって、ナッシュビルの音楽シーンは支配されていました。もしトップ10に入る曲をレコーディングしたければ、彼らのところに行く必要がありました。トムはその頂点に君臨していました。とても安定した場所にいました。

ちょうどこの頃、ウィリー・ネルソンは荷物をまとめ、テキサスへ移りました。彼は今でもテキサスにいます。クリストファーソンがやって来るまでは、ナッシュビルでは全て順調でした。彼は野良猫のように町へ乗り込んできました。ジョニー・キャッシュの裏庭にヘリコプターから降り立ちました。そして「Sunday Morning Coming Down」という曲を発表しました。

「日曜の朝に起きると、酷い頭痛だった。だから朝食にビールを飲んだ。デザートにもう一杯飲んだ。クローゼットの中から、最も綺麗に見える汚いシャツを選んだ。顔を洗い、髪をとかし、階段を下りた。そして新しい一日と向き合うのさ」

ナッシュビルはクリス以前と以後で大きく変わりました。彼は全てを変えました。この一曲がトム・T・ホールの世界を吹き飛ばしました。彼には準備が出来ていませんでした。この曲は彼を精神病院に送ったかもしれません。彼が私の曲を聴いていたら、どうなっていたでしょうか?

「鉛筆を持ったまま君は部屋に入る。裸の男がいる。『誰だ?』と君は言う。頑張って理解しようとするけど、家に着いたとき自分が何と言うのか、まるで分からない。何かが起こっているけど、何かは分からない。そうだろ、ジョーンズさん?」

もし「Sunday Morning Coming Down」がトムを怒らせ、精神科送りにしたのなら、私の曲は彼の脳みそを吹き飛ばしたでしょう。彼が聴かなかったことを祈ります。

私は最近、スタンダード集のアルバムを発表しました。マイケル・ブーブレやハリー・コニック・ジュニアが普段歌う曲です。ブライアン・ウィルソン、リンダ・ロンシュタット、ロッド・スチュアート、そしてポール・マッカートニーもこれらの曲を歌ったことがあります。しかし彼らの作品と私の作品では、レビューの中身が違います。彼らのレビューでは、各曲のソングライターの名前など出てきません。しかし私のレビューでは、ライターは全てを詳しく調べ上げ、このアルバムに収められた曲のソングライター全員に言及しています。

それは良いことだと思います。彼らは素晴らしいソングライターであり、これらの曲はスタンダードです。このアルバムのレビューは全て、彼らの説明に文字数の半分を費やしています。バディー・キー、サイ・コールマン、キャロライン・レイ。今や誰も、彼らの名前は知らないかもしれません。

彼らの名前が記事に登場して、私は嬉しく思います。時間はかかりましたが、重要性と尊厳がようやく彼らの名前に結び付けられました。なぜこんなに時間がかかったのか、私には分かりません。彼らがここにいて、実際にそれを見られなかったことだけが悔やまれます。

伝統的なロックンロールについて話しましょう。そこではリズムが全てです。ジョニー・キャッシュは言いました。「リズムを掴め。ブルーズをやるときにはリズムを掴め」リズムと共に演奏するロックンロールバンドは、今日とても少ないです。リズムとは何か、まるで分かっていません。ロックンロールは、ブルーズと別のものが融合して生まれました。そしてブルーズ自体も、二つのものから出来ています。多くの人は知りませんが、ブルーズとは、アラブのバイオリンとシュトラウスのワルツが融合したものです。

ロックンロールのもう片方はヒルビリーです。この名称自体が侮蔑的ですが、音楽の中身はそんなことはありません。デルモア・ブラザーズ、スタンレー・ブラザーズ、ロスコー・ホルコム、ギド・タンナー、スキレット・リッカーズ。狂った密造酒、そして荒野を走り抜ける車。これがロックンロールを作り上げているものです。科学の実験室やスタジオでは生まれません。

正しいリズムを掴まなくてはいけません。ブルーズを演奏した経験も無く、ヒルビリーの感覚も分からなければ、ロックンロールは演奏できません。何か他のものになるかもしれませんが、ロックンロールではありません。ごまかすことはできますが、ロックンロールにはなりません。

評論家は、私が人々の期待を裏切り続けてきたと言います。本当でしょうか?それが私のしたこと全てでしょうか?私が夜遅くまで起きて、どうやって期待を裏切ればいいかを考えていると思いますか?「あなたの仕事は?」「えぇ、人々の期待を裏切ることです」就職面接を想像して下さい。「あなたのスキルは?」「人々の期待を裏切ることです」「そのポジションは既に埋まっています。また電話してきて下さい。いや、こちらから電話します」期待を裏切る?それが何を意味するのか、本当にそんなことをしている人がいるのか、私にはまるで分かりません。

神様よ、なぜ私だけが責められるのでしょうか?私の作品は確かに、人々の期待を裏切っているかもしれません。でも意識的にやっているわけではないのです。

ブラックウッド・ブラザーズから一緒にレコードを作ろうと言われています。それもまた人々の期待を裏切ることになるかもしれません。当然ゴスペルのアルバムになるでしょう。彼らと一緒に歌おうと考えているのは「Stand By Me」です。ポップソングの「Stand By Me」ではありません。本物の「Stand By Me」です。

「嵐が怒り狂っているとき、私の傍にいてほしい。船が海に叩き付けられるように、世界が私を地面に叩き付けるとき、傍にいてほしい。風と水を操る者よ、私の傍にいてほしい」

「苦痛の真っただ中にいるとき、傍にいてほしい。地獄の主が襲ってきたとき、そして私の強さが朽ち果てていくとき、かつて戦いに敗れた者よ、傍にいてくれないか」

「誤りと失敗を犯したとき、傍にいてほしい。自分のベストを尽くしても、誰も理解してくれないとき、私の全てを知る者よ、傍にいてほしい」

私がもう一つレコーディングしようと考えているのは、「Oh Lord, Please Don’t Let Me Be Misunderstood」という曲です。きっとゴスペルアルバムに合うと思います。

今夜、このイベントに出席できて誇りに思います。これらのアーティストが私の曲を歌ってくれて、とても光栄です。真実を歌うことが出来る素晴らしいアーティストたちです。彼らの声を聴けば分かります。MusiCaresのことはよく考えます。彼らは多くの人々を助けてきました。私たちの文化に貢献してきた多くの音楽家を、彼らは救いました。私が個人的に感謝したいのは、ビリー・リー・ライリーのことです。彼が倒れ、仕事が出来なかった六年間、MusiCaresは彼をサポートしてくれました。ビリーはサンレコードのロックンロールアーティストです。

彼は唯一無二の存在でした。彼は曲を書き、演奏し、歌いました。彼はもっと大きなスターになるはずでした。しかしジェリー・リーがやって来たとき、彼は引き下がるしかありませんでした。

そして彼は業界が言うところの、恩着せがましい言葉ですが、一発屋になりました。しかし彼が残したインパクトは、数十曲のヒットを持つスターよりも大きかったです。

ビリーの曲は「Red Hot」です。それは本当に、猛烈な熱さを持っていました。聴き手の肉体を骨から引きはがし、同時に幸せにする力を持っていました。人生を変える力です。彼は力強く、スタイリッシュで、優雅でした。しかし彼はロックンロールの殿堂入りをしていません。メタリカ、アバ、ママス・アンド・パパス、ジェファソン・エアプレーン、アリス・クーパー、スティーリー・ダンは殿堂入りしています。メタル、ソフトロック、ハードロック、サイケデリックポップを悪く言うつもりはありません。でもビリー・リー・ライリーはまだ殿堂入りしていません。

彼とは年に数回会い、共に時間を過ごしました。彼はロカビリーのツアーに参加していて、私たちは色々なところで一緒になりました。彼と過ごした時間はいつも楽しかったです。彼は私のヒーローでした。初めて「Red Hot」を聴いたとき、私は1516歳でした。そして未だにその衝撃の中にいます。決して聞き飽きることがありません。そしてビリーが演奏する姿も、決して見飽きることがありませんでした。私たちは語り合い、夜通し遊びました。彼は深く、表裏のない人間でした。温かく、過去に縛られていませんでした。彼はただ受け入れていました。彼は自分がどこから来たかを理解して、自分という存在を受け入れていました。

そしてある日、彼は病に倒れました。ジョン・メレンキャンプが「Life is Short Even on Its Longest Days」で歌ったように、人はある日病を患い、二度と回復することはありません。MusiCaresは彼の医療費、住宅ローン、その他の費用を払いました。少なくとも彼は、心地よい、悪くない死を迎えることが出来ました。それは決してお金に変えられないことです。

そろそろ終わりにします。ここから出ていきます。恐らく多くの人を言い忘れたでしょう。そして特定の人たちのことを言い過ぎたでしょう。でもそれで構いません。古い霊歌のように、私たちはまだジョーダン川を渡っている最中です。またお会いしましょう。もしそのときには、ハンク・ウィリアムズが歌ったように、どうか神様が川の氾濫を防いでくれるように祈りましょう。