2015年9月、ブライアン・イーノはBBC Music John Peel Lectureのために講演しました。過去、ピート・タウンゼントとイギー・ポップも講演したようです。イーノのスピーチは流石としか言いようのない、知的で深い考察に満ちた内容です。あらゆるレベルを遥かに凌駕していて、ブライアン・イーノという人物は何なのだろうと疑問すら浮かびます。芸術とは、文化とは何か?全ての人に読んでほしいです。
リリース:2015年9月27日
リリース:2015年9月27日
数週間前から、この講演について考えていました。気付くと何故か、創造的産業(creative
industries)について、奇妙な文章を書いていました。そして「産業」という単語に違和感を覚えました。適切な表現ではないように思いました。「創造的産業」という言葉の起源は、何となく想像できます。創造的芸術を生業とする人は、政府からお金を貰うのに必死です。そのために、自分は産業であると説明します。産業であるということは、経済構造の一部ということです。そして自分が行うことは全て、数字で表すことができる、ということです。GNPにこれだけ貢献した。これほどの雇用を生み出した。チャート1位を何回取った。私が思うに、これは芸術にとって、終わりの始まりです。数字で表現できないものは、無意味であると考えられてしまいます。
具体的な例として、教育長官が最近、学生たちが芸術や人文科学を専攻しないのを奨励しました。なぜならSTEM科目のように、良い就職につながらないからです。STEMは科学(science)、技術(technology)、工学(engineering)、数学(mathematics)の頭文字です。そして「stem」という単語自体は幹という意味です。そこから育ち、派生していく中心部分です。このSTEMという略語は、これらの科目こそ重要で、経済に直結するもので、英国を偉大な国にするもので、GNPを増やすものであるを示唆しています。
一方で、芸術は何と言うか、素敵なものです。贅沢品です。あの教育長官を批判するつもりはないです。しかし彼女の発言は、芸術は良いものかもしれないが、野性的で思いつきの要素が強く、個人主義的で、改善したり支援することはできない、ということをほのめかしていました。つまり、国の仕事ではないのです。芸術とは、自由人がのめり込むものであり、油井から溢れる油のように、頭から閃きが出てくる。
私は今夜、二つの質問をします。一つ目に、芸術は贅沢品なのでしょうか?二つ目に、芸術が繁栄する状況を作り出すことは可能でしょうか?
私たちは本質的に、文化について考え直す必要があります。文化の役割、そして文化とは何か。誰も答えを知りません。20人の科学者に科学の役割を聞くと、全員が同意します。私は実際に聞きました。20通りの似たような回答が返ってきます。世界を理解することに関係があるようです。もし20人の芸術家に、芸術の役割を聞けば、15の異なる回答が返ってくるでしょう。何人かは同じことを言うかもしれません。創造的産業に身を置きながら、その中心にあるものは、誰も分かっていません。芸術をつくるとき、私たちは何をしているのか?芸術を消費するとき、私たちは何をしているのか?
まずは文化を定義してみようと思います。これは危険な試みです。薄い氷の上を歩くようなものです。多くの人々が失敗してきました。そこで私は、文化の定義を狭めます。文化=創造的芸術とします。一方で、芸術の定義は極めて広くします。芸術とは、やらなくても済む全てのものです。
生き続けるため必要な行為があります。例えば食事です。食べること自体は、人間も動物も行います。しかし動物と違い、私たちは脚色や装飾を行います。ベイクド・アラスカやソーセージロール、ヘストン・ブルーメンソールが作った彩り豊かな料理を食べます。単なる食事という行為を、複雑で様式的なものにします。同じように、私たちは服を着ます。これも必要最低限の行為です。では何故、ディオールのドレスやドクターマーティンのブーツ、シャネルの黒いコートを着るのか?やはり私たちは、ここにも熱烈な情熱を付け加えています。様式化し、潤色し、付け加え、装飾しています。動作はどうでしょうか?私たちは体を動かします。そしてルンバやタンゴ、チャールストンを踊ります。音楽に合わせて腰を激しく振ります。動作という単純明快な行為すら、様式的活動へと変化させています。いくつもの異なる方法で、様式化させています。最後に伝達です。私たちは集団の中で暮らしており、お互いに伝達し合っています。しかし実際には、伝達以上のことをしています。叙事詩、ポップソング、シンフォニー、広告、様々なものを作ります。単なる伝達という行為に多くを付け足しています。
私たちは全てを高度に様式化しています。しかし出鱈目にやっているのではありません。細心の注意を払っています。あんなものを着て死んでいるのを見られたくない!と言う人がいます。別の人は、ビョークのアルバムがなければ生きていけない!と言います。髪を染める色は、誰にとっても深刻な問題です。自分をどうやって様式化するのか、私たちは膨大な思考を投資します。そしてお互いに見せ合います。ここにいる誰もが出鱈目に服を着ているわけではなく、出鱈目に髪を切っているわけではありません。もしそんな人がいれば、是非お目にかかりたいです。
私たちは非常に多くのことをして、様式化しています。そして様式化という行為は、先ほど述べた芸術の定義に入ります。同じくこの定義に入るものとして、シンフォニー、香水、スポーツカー、落書き、ニードルポイント、遺跡、入れ墨、スラング、明朝時代のガラス、いたずら書き、プードル、リンゴのシュトルーデルがあります。静物、オンラインゲーム、ベッドのノブ、豊胸手術もそうです。これら全ては、無くても生きていけるという意味で、不必要なものです。しかし実際には必要です。なぜでしょうか?なぜこんなことをするのでしょうか?世界中の人々が、余暇の時間と体力のほぼ全てを費やし、物事の様式化と他者が様式化したものを楽しんでいます。
私の友人である科学者のダニー・ヒルスは、他の科学者と一緒に、ある質問を受けました。今日最も面白い科学的な疑問は何か?多くの科学者は宇宙定数やライマンの仮設など、複雑な物事を挙げました。しかしダニーの回答はシンプルでした。なぜ私たちは音楽が好きなのか?そして実際に考えてみると、確かに不思議です。なぜ私たちは音楽に興味を持つのか?どうして好みがあるのか?なぜあの曲よりこの曲の方が好きなのか?どうしてこのベートーベンのソナタの方が、あのソナタよりも好きなのか?なぜ同じソナタでも、この演奏の方があの演奏よりも好きなのか?私たちは好きなものに対して、明確な境界線を引いています。つまり審美眼です。そしてそれは、機能主義とは全く関係ないようです。生活することや、産業とは何の関係もありません。
ここで子供たちを見てみましょう。遊んでいるとき、彼らは何かのふりをしています。この棒を振れば、君はカエルに変わる。もし君がこのビンを日光に反射させたら、僕はもう飛ぶことができない。子供たちは飽きることなく、いつまでもこんな遊びをしています。そしてそれが大切なのです。子供たちは遊びを通じて成長し、学びます。これは順応していくプロセスです。
ある子供が何かの真似をしているとき、実際に彼が行っているのは想像です。そして想像こそが、人間の中心を成す芸当です。私たちを他の動物から隔てるものです。動物の想像力はとても狭いです。私たちは、実際には存在しない世界を想像できます。その中で起こることを考え、詳細を組み替えます。あれの代わりにこれをしたら、この世界はどうなるだろう?全てのシナリオを頭の中で想像します。そして私たちは感情移入します。他人の頭に広がる世界を思い浮かべます。感情移入するためには、世界構築の能力が必要です。この世に生まれた子供たちは、すぐに世界構築を始めます。生まれた直後からです。想像という素晴らしい才能を磨きます。それは、人間になるということです。動物から人間へと成長します。学校に行き、勉強を始めるまで、彼らはずっと世界構築を行っています。そのままずっと世界構築を続けたらどうなるのか?世界最高の教育レベルを誇るフィンランドでは、読書したいと思うようになるまで、子供たちは読書を始める必要はありません。7~8歳くらいまで読書しない可能性もあります。まぁ教育の話はここまでにします。ここで私が言いたいのは、想像こそが人間の営みであり、幼い子供たちが遊ぶとき、彼らは想像しているということです。彼らは想像力を鍛え、別の世界がどのような姿かを思い浮かべます。別の世界を想像することによって、この世界についても考えます。世界がどのようになるかを想像し、未来について考えます。もしこんなことが起こったらどうなるか?私たちが橋を架け、サッカーチームを結成し、結婚式を計画し、パーティを楽しみ、政府を持つことができる理由は、これら全てを想像できるからです。
子供たちは遊びを通じて学び、大人は芸術を通じて遊びます。私たちは人生で遊ぶことを止めません。芸術と呼ばれるものを通じて、私たちは遊び続けます。先ほど挙げた、芸術の定義に入る物事のリストは永久に続きます。シンフォニーのような「高尚な」ものから、ケーキのデコレーションやネイルペイントといった世俗的なものまで、全ては同じことをしています。小さな世界の構築です。ネイルペイントが世界?と疑問に思うかもしれません。では最も分かり易い例から始めましょう。小説と映画です。
小説を読むとき、私たちは別の現実に自らを没頭させます。リトルドリットのようなチャールズ・ディケンズの本を読むと、私たちは19世紀の、債務者刑務所とロンドン貧困層の世界に移動します。読者にとって、その効果は絶大です。少なくともディケンズの読者にとっては絶大でした。ほとんどの読者は債務者刑務所など経験したことはないですが、本に書かれていることに衝撃を受け、そこに描かれている人たちに感情移入します。今まで会ったことのない、見過ごしていた人々が、自分たちと同じような感情を抱いていたことに驚きます。別の世界へ入り込むことで、自分とは違う世界で生きる人々を理解し、その世界に共感を覚えます。それは凄まじい社会的影響となり得ます。
ニール・スティーヴンスンやウィル・セルフの小説は、実在しない世界を構築します。新しい想像の世界です。やはりその世界に入り込めば、想像力や心身の筋肉を鍛えるだけでなく、自分が生きている世界を改めて見ることになります。二つの世界を比較します。本や映画が提供するのは、その世界へ入り込み、楽しみ、そこから何かを学ぶための招待状です。
ヘアースタイルはどうでしょうか?誰もが自分の髪型を持っています。髪型を決めるとき、実は私たちは、自分はこの髪型が存在し得る世界に属していると公言しています。そして目にする他人の髪型にも敏感です。つまり発信しながら受信もしています。全ての様式世界の中で、自分を特定の場所に配置します。自らを識別し、他人を識別します。
モース・ペッカムというアメリカの美学者はこう書きました。芸術とは、虚構の世界における緊張と問題に触れることであり、それにより私たちは現実世界の緊張と問題に耐えることができる。ブロムリーやルイシャムは、こう言いました。芸術とは、虚構の世界における喜びや自由に触れることであり、それにより現実世界でもそれらを認識し、探し出すことが可能になる。やはり芸術は、私たちの人生において重大な機能を持ちます。
ある日バスに乗ったら、二人の女性が話していました。好きなテレビドラマの最新回で、あるキャラクターがレズビアンだと明らかになったようです。今までそんな傾向は全く見えなかったので、彼女たちは心底驚きました。話を聞きながら私は、テレビドラマについてだからこそ、彼女たちはこんな話ができるのではと思いました。それが二人の知人や、彼女たち自身だったら、とてもあんな風には話せません。テレビドラマというある種の芸術作品だからこそ、彼女たちは中立な心で楽しく話し合うことができます。彼女たちの現実に関わることだったら、もっと慎重になるでしょう。つまり広い定義での芸術は、危険でないものについて感情を持つ機会を与えてくれます。
美術館でショッキングな絵画を見ても、私たちはその場を去ることができます。ラジオから恐ろしい曲が流れてきても、電源を切ることができます。芸術は過激で危険な体験を提供してくれる一方、安全な逃げ場所も与えてくれます。いざとなったら、電源を切ることができます。つまり芸術は、疑似体験装置でもあります。
747のパイロットは、シミュレーターを使って訓練します。実際に飛行機を操縦するとき、墜落しないためです。シミュレーターなら、失敗しても笑って済みます。芸術も同様です。
ウィリアム・ハーディー・マクニールという歴史家は、「Keeping Together
in Time」という素晴らしい本を書きました。副題は「人間の歴史におけるダンスと演習」です。筋肉協調によって人間が感じる、情熱的な喜びがテーマです。ダンス、行進、カーニバルなど、人々の動きが同期する状況です。私はふと、バスで見た二人の女性を思い出しました。彼女たちは、実は同期していたのだと思います。
私たちの文化は急速に変化しています。恐らく、現代の一ヶ月間に起こる変化は、14世紀全体で起こった量と同じくらいだと思います。私たちはこれに対応しなくてはいけません。現代においては、誰一人として同じ体験はしません。ある人は車の世界で起こっていることに詳しく、別の人は薬、またある人は数学、あるいはファッション…世の中で起こること全てに精通する人はいません。よって私たちは皆で一致団結し、同期する方法が必要です。そしてそれこそが、創造的芸術である文化の役割です。文化とはつまり、私たち全員が関わる集団的儀式です。GNPに貢献するのはもちろん良いことですが、最も重要なのは、私たちが団結し、文化と呼ばれる巨大で素晴らしい会話を生み出すことです。これが私たちを同期させてくれます。
芸術はどこから生まれるのでしょうか?自由意思論者や自由競争主義者、空想家が考えるように、どこからともなくやって来るのでしょうか?ベートーベンが歩き回ると頭の中でシンフォニーが作られ、突然にして何か絶対的な力によって、現実の音楽に変わるのでしょうか?そうではないと思います。
私は25年前、バービカンに展示会を見に行きました。20世紀はじめのロシア作品展でした。私が特に好きな時代で、自分でも詳しい方だと思っていました。そこには約150人の作品が飾られていました。有名なところでは、カンディンスキー、タトリン、ロトチェンコです。しかしその他70人ほどは、全く聞いたことがありませんでした。しかし作品は本当に素晴らしかったです。どうして彼らを知らなかったのだろう?不思議に思いました。きっと充実した時代だったのでしょう。カンディンスキーのように歴史に名を残した人々と、そうでない人々の間には、実はそこまで大きな差は無かったのだと思います。多くの人々が素晴らしい絵画を描いていました。何故でしょうか?どうしてあの時代には、素晴らしい芸術家が大勢いたのでしょうか?
ロシアの歴史を学ぶと、当時は芸術家に対する多くの支援があったようです。多くの収集家がいて、いわゆる取り巻きも大勢いました。芸術家たちが出会うパーティのためのマンションを持っている人、サロンを貸し出す人、誰でも個展を開催できる空きスペースを持っている人がいました。美術館も沢山ありました。最新の素晴らしい若手芸術家を引き抜こうと、競争し合っていました。もちろん芸術家たち自身の間にも、お互いに努力し合う環境がありました。これら全てが素晴らしい絵画を生み出しました。
ある単語が私の頭をよぎりました。「scenius」という言葉です。「genius」は個人の才能であり、「scenius」は社会全体の才能です。歴史を見ると、「scenius」の良い例が沢山あります。例えばルネサンス。ラファエロ、ミケランジェロ、ダビンチが同じ時代に、同じ街に住んでいました。英国のポップカルチャーも同様です。同時に多くの才能が現れたことが、何回もありました。そしてそれはエコシステムにつながります。エコシステムの中では、全体の中でどれが重要かを見分けることができません。重要なものが頂上にあり、そうでないものが底辺にあるというヒエラルキーの考えに、私たちは慣れきってしまっています。しかしエコシステムは違います。全ては互いに結びつき、あらゆる意味で共存関係にあります。もしエコシステムから一つだけを取り除けば、どこか別の場所で何かが倒壊します。文化も同じです。英国の音楽シーンは特にそうです。
新しいアイデアは個人によって示され、社会によって作られます。しかし私たちは個人を称えるばかりで、その個人を生み出す社会全体を見ることはありません。
例として、私自身の話をします。自分の話をするとき、大抵の人は自分が全てやったかのように語ります。俺独自の方法でやった。俺は独立独行の男だ。ハイテクの億万長者は特に、自分一人が世界を作り上げたかのように話します。私の人生も皆さんと同様、とても入り組んでいるので、ある一部分だけを取り上げます。
11歳のとき、私は学年11を通過しました(中学卒業に相当)。両親がカトリック教徒だったため、カトリック系グラマースクールの奨学金を得ました。そこは優秀な労働者階級の子どものために席を確保していました。その後私は芸術学校へ行きましたが、学費は無料でした。そこで過ごした5年間はかけがえのない時間です。素晴らしい先生と出会いました。偶然にも彼は、ピート・タウンゼントの先生でもありました。卒業後、私は失業手当を受けました。私の人生でとても重要な時期でした。働くことだけは嫌でした。一度職に就くと、もうそこからは逃げられないと思いました。自分が芸術家になりたいということは、とてもはっきりしていました。
私は職に就くことなく、あちこちで奇妙な仕事をしながら、やがてロキシー・ミュージックと出会いました。幸運でした。素晴らしいグループに加わることができました。もう一つの幸運は、ジョン・ピールが初期のライブに来てくれたことでした。そして私たちをラジオに出演させてくれました。リチャード・ウィリアムズという作家がその番組を聞いて、とても大きな記事を書いてくれました。私たちは当時まだマネジメントはおろか、ファンすらいなかったので、かなり異例でした。そしてジョン・ピールがいなければ、今の私はいなかったでしょう。
そして当時の私にとって、健康保険サービスと図書館は大きな支えになりました。理想的なソーシャル・エンジニアリングの考えを持っていた人々が、遥か昔にそれらの施設を作りました。BBCを作ったロード・リースは、ラジオという新しい考えによって、情報が今までとは全く異なる方法で広がることが、国全体の利益になると信じていました。今日の人々がインターネットについて話すのと、似ていると思いませんか?
長期にわたる寛容さを持つ人々が、奨学金制度というソーシャル・エンジニアリングを作りました。では失業手当はどうでしょうか?多くのお金が動いている社会の中で、特定の人が貧困で苦しむのはおかしいと、誰かが考えました。だから失業手当というものが存在しています。現代ではそんな風に考える人はいないかもしれません。でも当時はそう信じられていました。これらのソーシャル・エンジニアリングは利他主義の象徴であり、未来のための寛容さでした。それはようやく、今実を結び始めたと思います。私たちは新しい時代に入りました。
これまでは「不足」の時代でした。経済的な不足です。不足という考えと資金のための競争に、全ての経済が基づいていました。しかしポール・メイソンの「Post Capitalism」という本や、デヴィッド・グレーバーが書いているように、今私たちは「豊富」と「協力」の時代に入っています。全てが自動化し、どんどん生産的になっていきます。しかし一方で私たちは、生産プロセスから手を引いていきます。自動化とはロボット化することであり、プロセスに人間は不要です。それでは私たちは何をするのでしょうか?世界は急速に変化しています。加速し続けます。私たちはこれに対応しなくてはいけません。どうすればいいのか?私たちは今よりも更に、芸術家にならなくてはいけません。私のようなプロだけではありません。全ての人がこの活動に関わり、お互いに同期し合い、あらゆるものと繋がり、あらゆる未来の可能性について冒険心を持ち、物事を理解します。
ベーシック・インカムという言葉を聞いたことありますか?誰もが賃金を得るべき、という考えです。働いているか否かに関わらず、全ての人です。これにより貧困は無くなります。酷い話だと思うかも知れませんが、実はそうでもないのです。是非調べてみてください。そしてもう一つ、オープン・ソースという言葉があります。アイデアを作った人がそれを保護して全ての収益を得るのではなく、そのアイデアを共有することです。
今日ほとんどの巨大コンピューターを動かすシステムであるリナックスは、オープン・ソースです。誰でも好きに変更を加えることができます。ウィキペディアも同様です。どちらも、20年前には想像できなかった共有リソースです。当時の人々にこんなことを言っても、誰も信じなかったでしょう。
これはまさに利他主義です。私たちはもっと利他的になる必要がある。ウィリアム・マカスキルは言います。この世界で、私たちが住むところだけが極端に裕福である状態は、どう考えても持続的ではありません。難民危機も起こるべくして起こっています。富を独占する一部の人々から、貧困に苦しむ大勢が、分けてもらおうとしているだけです。
私たちは再成形しなくてはいけません。座って哲学書を読み、自分について最初から考え直すのも良いでしょう。しかしそんなことができる人はごく僅かです。私もできません。それよりは、皆が考えていることを把握し、全体としての態度を正していくことが良いと思います。そしてそのための構造が増えているのは、歓迎すべきことです。
これこそが、文化は単なる贅沢な装飾品ではなく、私たちにとって行動の中心だと考えるべき理由です。最後に、バーバラ・エーレンライクの「Dancing in the Street」という素晴らしい本を紹介します。副題は、集団的喜びの歴史です。彼女がブラジルにいたとき、サンバのダンススクール集団が砂の上で踊っていました。彼らは完全なる尊厳を持ち、独自のリズムに包まれていました。顔は疲れているように見える一方、宗教的な歓喜で光り輝いていました。痩せた、ラテのような色の肌を持つ若い男性が、ミュージシャンの後ろで踊っていました。彼が全体のペースを操っていました。普段の生活で、彼は何をしているのか?銀行員?バスの運転手?それはともかく、ここで素晴らしい羽根の衣装をまとった彼は、王子様のようであり、神話に出てくる人物のようでした。神様のようですらありました。その瞬間、そこでは、人々の間に境目はありませんでした。
彼らが遊歩道に進んでいくと、見物人もリズムに加わり始めました。招待も呼びかけもなく、後ろめたさもなく、都会の日常生活に溢れる束縛をほどくためのお酒すらなく、サンバスクールの集団は人々を巻き込み、束の間のお祭りが生まれました。そこには目的や理由などありません。宗教的な意味や、イデオロギー的なメッセージや、お金とも無関係です。あったのは、きっかけだけです。そしてそれこそが、この混み合った惑星で、私たちが同時代に存在することを祝福するために、必要なものです。ご清聴ありがとうございました。