グラストンベリーフェスティバルは動物に優しくない。
蛮行は家庭内から始まる。
芸術家バンスキーは昨年、知性溢れる感動的な作品「仔羊たちのサイレン」を持って、グラストンベリーフェスティバルに乗り込んだ。想像を絶する程に邪悪で卑劣な残虐行為、食肉処理へ運ばれるトラックの中から、仔羊が泣き叫ぶ様を描いている。
紳士を装うグラストンベリーの神、マイケル・イーヴィスは、特に感銘を受けなかった。
「また動物権利の運動か。」誰もがハッキリ見たものを分からないふりをして、彼は質問した。そうじゃない、マイケル。これは2015年度ユーロヴィジョン・ソング・コンテストに、イギリスがエントリーする作品の予告編だよ。
「私たちの牛はとても幸せだ。」突如ドクタードリトルに豹変したマイケル・イーヴィスは、報道陣に言った。「彼らはこの州で一番の牛乳産出量を誇っている。」
彼が意味したのはつまりこうだ。「私たちは経済的にとても幸せだ。なぜなら私たちの牛は、この州で一番の牛乳産出量を誇っているからだ。」グラストンベリーの牛からのコメントはなく、彼らが幸せそうに笑う声も聞かれなかった。ドクターイーヴィスは牛乳生産量を、幸せの象徴だと見ている。留意する。
「この州で一番の牛乳産出量を誇る」ために、(論理的に推察するに)牛は意に反して、しつこくレイプされる。生後13ヶ月目から人工的に精液を注入される。ウシ成長ホルモンを投入される。後者はイギリスで禁止されたが(つまりは難色を示された、ということだが)、アナグマをガスで殺し、キツネを射殺・狩猟する際に、農業従事者は平気で法を破る。従って、ウシ成長ホルモン投入という習慣は継続していると考えるべきだ。農業従事者の荒稼ぎはイギリスにおいて、聖書と同等に不変的で神聖なものと見なされている。
乳牛が授乳の場を欠席することは許されない。牛乳の生産量が減少し、農場の採算がとれなくなる。よって牛は繰り返しレイプされ、レイプされ、レイプされる。推察するにマイケル・イーヴィスは、これこそが生き物を幸せにする偉大なる方法だと信じている。農場主にとって利用価値がある約四年間しか、乳牛は生きられない。しかし誰からも邪魔されなければ、20年間は生きている。
牛乳を生産できなくなったグラストンベリーの牛は、マイケル・イーヴィスの家に運ばれ、やがて息を引き取るまでEmmerdaleを鑑賞する。私はそう推測する。マイケルが強調するように、牛は「とても幸せ」なのだから。
真実としては当然、低水準の牛乳しか供給できなくなった途端、牛は搬送され、喉を切り裂かれる。
牛を乗せたトラックをマイケル・イーヴィスが手を振って見送り、牛が「とても幸せ」にマイケルへ手を振り返す。そんな場面が、あまりにも容易く想像できる。
乳牛から生まれた雄牛はすぐに射殺される。あるいは牛肉になるべく育てられる。木箱の中に閉じ込められ、食肉になるまでの短い生涯を、日光を浴びることすらなく過ごす。出産後、新生児はハンマーで頭を叩かれるか、母親と一日だけ共に過ごした後に引き離される。爆発しそうなストレスが、母親と赤ん坊にもたらされる。マイケル・イーヴィスがこれを許可したのか?そのようだ。牛乳は牛肉よりも残酷だ。酪農場の牛たちは殺されるまで、何年間も拷問を受け続ける。子牛は片足を掴まれ、母親から引きずり出される。母子共に混沌とした苦痛に悶える。
グラストンベリー農場のマイケル・イーヴィスはお金を生み出さなくなった牛に、生きる場所を与えるのか?どうだろう。頭を切り落とせ!
狂気の沙汰としか思えない環境損害を、酪農は引き起こす。マイケル・イーヴィスは知っているのだろうか?疑問だ。環境などくそくらえ!動物の権利を尊重しない人は通常、人間の権利も尊重しない。自然な流れだ。
グラストンベリーフェスティバルで演奏するとなれば、視覚芸術専門家マイケル・イーヴィスに首を突っ込まれる。2011年、私はMeat is Murderを歌おうとした。私の背後にあるスクリーンは通常、工場式農業のあらゆる悪事を映している。しかしそのときは空白だった。自分の酪農場とは全く関係ない内容だとして、マイケル・イーヴィスが映像投影を止めたようだ。そのビデオに映る哀れな魂たちも同じように、その場を無関係に立ち去りたかった。それが彼には理解できなかった。若者の気分を害さないためと言って、マイケル・イーヴィスは自身の行動を正当化した。彼が事実上言っていたのはこうだ。
それは私たちの胃にはいいけど、目にはよくない。そして何があっても、動物虐待について教育してはいけない。私たちの幸せなグラストンベリー農場に、経済的損害をもたらしてはいけない。
嘘っぱちの映像なら、上映されても気にしないはずだ。しかしあのビデオが真実だと分かっているからこそ、彼は阻止したのだ。
マイケルは死んだ動物を愛する一方で、生きているものを嫌う。正気で論理的な人は、こんなことはできないはずだ。
犬と猫が「食べ物」でなくて、なぜ牛と羊は「食べ物」なのか。クラフツで毒殺された不幸な犬を、BBCは大々的に報じた。確かに残虐なことだ。しかしそのまさに同じ週に、40,000頭もの子豚が首を切断されている。BBCはこちらには何の関心も示さなかった。
なぜ後者はBBCのニュースにならないのか。クラフツで毒殺された一頭の犬を、全国民が嘆き憐れむ。しかし40,000頭の子豚が泣き叫び、殺処分されても、どこも取り上げられない。
犬が食べ物でないのなら、どうして豚は食べ物なのか。
「私はベーコンが大好きなの」と言う人がいるかもしれない。豚がそんなに好きなら、死んだ後ではなく、生きている間に愛してあげてほしい。そして「ベーコン」がそんなに「大好き」なら、殺戮から守ってあげてほしい。その動物を食べる理由は、愛ではなく憎しみなのか。
猫は「食べ物」ではない。なぜ仔羊は「食べ物」なのか。
ある動物は殺されるに値して、ある動物は違う。そう信じるよう、私たちは訓練され、洗脳されてきた。それを私たち自身で判断させないために、大量の広告努力がなされている。ベジタリアンのセレブ料理人なんて、BBCにはいない!人間と動物は両方とも、自然権を有している。それを理解させないため、私たちは馬鹿でいることを推奨される。ゲイリー・ヨロフスキーの素晴らしい言葉を引用すれば、「もし蜂と蟻を地球から取り除けば、生命のサイクル全てが破壊されてしまう。しかし人間を乗り除けば、地球全体が力強く成長し、救われる。」ということだ。
工場式農業が(それは全く持って農業ではなく、他と変わらぬ産業である)人間の癌に関係していることを知っているか。牧歌的な地方でとても強く漂う「田舎の匂い」が実は、動物を大量虐殺する匂いだと知っているか。アナグマの(間引きではなく)殺害が、牛、つまり神聖な農業従事者の収入源を守るためだと知っているか。工場式農業が、この世に存在する全ての電動輸送機器が排出するより多くの温室効果ガスを引き起こしていると知っているか。もちろん知っているはずがない。もし「食肉」産業が地球を滅ぼしていることを知っていれば、私たちの生命を脅かす最大の恐怖に立ち向かうはずだ。
多くの動物を憎む人と同じく、マイケル・イーヴィスは(私たちが女王と呼ぶように命令されている)エリザベス・バッテンバーグから2007年にCBEを授与された。2005年に彼は「狩猟を禁止することがいかに理不尽か」を表明した。マイケル・イーヴィスのような人にとっては、十分な血が流されることはない。もっと!もっと!もっと!殺せ!殺せ!殺せ!もしハンターが狩猟されたら、彼は同じように異議を唱えるだろうか。この地球上で、動物の権利は第一級の社会的モラルである。君は食肉処理をする者をサポートするか、される者をサポートするか。どちらか一つだ。
モリッシー
2015年4月8日