2016年3月18日金曜日

Wet Sand / Stadium Arcadium



僕の中にある影は肥大化して、決して満足することはない
分かっているよ、でも

至る所で恋をしてきたけど、僕はいつでも真剣だった。口出しされたくない
誰かがエンジンを入れた。もう出発の時だ

君は僕が知る最高の人だ

僕の明るい面は終わりを迎えた
もし僕と君がまた出会ったら、世界が回るスピードすら遅くなるかもね

一緒に見てきたあらゆる茶番劇の思い出は、薬のように僕を蝕む
残ったのは冷たい笑いだけ

外を歩くのにピッタリの日だ。君のことをもう少し知りたい
あの時僕はベストを尽くしたよ

花嫁を連れ出すのにピッタリの日だ。僕たちは良かれと思っていた

実は君をあそこで見かけた。鳥たちと遊んでいたね
分かっているよ、でも

マリリンモンローが辿った最後の日々も、君の日常には敵わない
神々しい美しさが向かい合った

気ままに過ごすのにピッタリの日だ。僕たちは良かれと思っていた

疑うことなんて知らないから、僕なりに考えて言った
この身を捧げるけど、決して信心深いわけじゃない
父よ、母よ、娘よ

今まさに始まろうとしている。その前に薬をもう一つだけ。僕は国中を旅している
僕の仮説は完璧じゃないけど、かなり良い線だと思う

もうすぐ辿り着くのだから、今更気にする必要なんてない
胸の内を分かち合う度に痛いけど、誰かがこじ開けて、世の中に晒してしまった

外を歩くのにピッタリの日だ。僕たちは良かれと思っていた

疑うことなんて知らないから、僕なりに考えて言った
この身を捧げるけど、決して信心深いわけじゃない
父よ、母よ、娘よ

濡れた砂では君を作れない。全く形にならない。君は消えてしまった
でも僕は、何があっても僕のままでいるよ

濡れた砂では君を作れない。全く形にならない。君は消えてしまった
でも僕は、何があっても僕のままでいるよ

2016年2月20日土曜日

Andy Bell Interview / Premier Guitar (2016.02.08)



Premier Guitarというサイトに掲載された、Andy Bellのインタビューです。楽器との出会い、影響を受けた音楽、Rideのレコーディングなどについて語っています。当時のシューゲイザーについて詳しくない方も、楽しめて且つ勉強になる内容です。

リリース日:201628

以下、筆者による翻訳。

80年代後半、イギリスの大部分がアシッドハウスに没頭していた頃、新しい音楽が様々な大学都市で始まっていた。My Bloody ValentineDinosaur Jr.Spacemen 3などのノイズグループと、Cocteau Twinsに代表されるドリーミーなバンドに影響を受け、アート感覚を持ったミュージシャンたちは、ロックにアンビエントなギターを加え、新たな可能性を探った
パンクの「誰でもバンドが組める」というエゴとは無縁の哲学、ギター、ベース、ドラムの基本的な楽器編成、ドローンサウンドとメロディの融合。彼らは新世代のサイケデリック音楽を作った。しかし外部を遮断するような雰囲気は、足元のエフェクターに頼り過ぎという印象を与えた。更には俗物根性とまで批判された。音楽誌メロディメーカーは、既に始まっているパラダイムシフトに気付かず、彼らを「自分で自分を祝福する音楽シーン」「シューゲイザー」と名付けた。その創造性が数十年後も痕跡を残すことになるとは、当事者も含め、ほぼ誰も考えていなかった。しかしSlowdiveLushthe TelescopesDNAは、A Place To Bury StrangersMogwaiSigur RosYeah Yeah YeahsI Break Horsesといった現代のバンドにも受け継がれている。
オックスフォード出身のアンディベルがライドを結成したのは1988年。周囲と同じくノイジーなギターを身に纏っていたが、ボーカルのハーモニーと12弦ギターによって彼らは独特の存在になった。成功を収めた何枚かのアルバムの後、バンドは1996年に解散。その後10年間、ベルはオアシスのベーシストになった。
未だに絶大な影響力を持つファーストアルバム「Nowhere」は、201510月に25周年を迎えた。「90年代ベスト~」「最も影響を与えたアルバム~」などのランキング常連である。ブックレット、写真集、ベル執筆のライナーノーツ、更には初登場となるロンドンのタウン&カントリークラブでのライブを収録したDVDと共に再発される。
昨年4月、再結成したライドはコーチェラに出演、年末まで続くワールドツアーに乗り出した。バンドの歴史、シューゲイザーの発展、自身の進化、そしてお気に入りの機材について聞いた。

Q:ギターが最初の楽器だったのですか?
A:家にウクレレがあったけど、ハマることはなかった。9歳の誕生日に、ギターが欲しいと言ったよ。ナイロン弦のクラシックギターを買ってもらい、レッスンにも通った。でもすぐに飽きてしまった。叔父さんからコードを教えてもらい、フォークソングも弾けるようになった。でも全てが始まったのは1983年、ザ・スミスを初めてラジオで聴いたときだ。本当に素晴らしいサウンドで、すぐにカセットを買いに行った。気付いたらジョニーマーのギターをコピーしていたよ。

Q:マーは素晴らしいです。最初にコピーする対象としては、とても難しいと思いますが。
A:僕は「This Charming Man」をコピーしようとしていた。でも僕のバージョンを弾いていた、と言う方が正しいかな。もっと多くのコードを覚えなきゃと思った。クラシックの理論や楽譜を読む練習はしなかったけどね。だから僕のEコードは未だに間違っているよ。レッスンの講師が弾いたものを、僕は同じように弾いた。でも彼は「君は正しく弾いている。でもやり方は間違っている。なぜなら君は楽譜ではなく、耳で聞いているからだ」と言った。「正しく弾いているなら、やり方なんてどうでもいいじゃないか」と思った。楽譜を見ると、音楽的失読症みたいな気になる。でも耳で聞けば、簡単に理解できる。

Q:エレキギターを始めたのはいつですか?
A:クラシックギターでレコードに合わせて弾いていたら、やがて両親の友人がホフナーをくれた。黒くて、ピックアップが三つあって、ジャズマスターみたいに沢山のスイッチが付いていた。しばらくはアンプなしで弾いていた。そしてある日、地元オックスフォードのガラクタ市で奇妙なバルブ付きのアンプを見つけた。誰かの手作り品だったようだ。今にして思うと、かなり危ないよね()

Q:プロ仕様の楽器を手にしたのはいつですか?もともと欲しいものがあったのですか?
A:しばらくそのホフナーを弾いた後、サテライトの素晴らしい335モデルを手に入れた。ライド初期に使ったよ。そしてレコード会社と契約したとき、330360という二本のリッケンバッカー12弦ギターを買った。あとグレッチのテネシアン。ロンドンのデンマークストリートで全部いっぺんに買ったよ。マークはフェンダーのジャガーと、やはりリッケンバッカーを買った。彼はジョンレノンが使っていた小さいサイズを買って、僕はジョージハリスンやロジャーマッギンと同じ大きいものを買った。

Q12弦ギターに興味を持ったきっかけは、やはりビートルズでしたか?
A:もちろん、ビートルズの存在は大きかった。そしてジョニーマーも弾いていた。ハリスンとマーはかなり似ている部分があった。半分だけのコード、解放弦、メロディなのかリズムなのか判別できないフレーズ、カントリーみたいなピッキング、そして同じコードを何通りもの押さえ方で弾いていた。とても刺激を受けたよ。アコースティックでは、ポールサイモンが大好きだった。「Scarborough Fair」「Anji」を覚えたよ。難しかったけどね。

Q:それがライドのメロディックな面とギターサウンドのルーツだったのですね。攻撃的なノイズはどのように生まれたのですか?
A:当時周りにいたバンドから影響を受けた。そしてthe Whoの「My Generation」、ストーンズの「19th Nervous Breakdown」。あの曲のベースはノイジーで、下降していくリフが最高だ。そしてMy Bloody ValentineSpaceman 3Loopといった、僕たちの少し前から出てきたバンド。彼らにもノイズの要素があった。Sonic Youthの「Daydream Nation」には多大な影響を受けた。僕たちが最初に書いた曲はとてもイギリス的だった。ソフトでメジャーコードを使った、the SmithsFeltのような感じだった。でもSonic Youthを聴き始めた途端、僕たちはノイズを出し始めた。全てがより自由に、より芸術的になっていった。「Nowhere」や「Seagull」を聴けば分かる。My Bloody Valentineの影響は大きい。ベースの音、ギターの雰囲気、ドラム、プロダクション。僕たちはノイズに取り付かれていたのさ。

Q:当時、ポストカードレコードと契約することはなかったのですか?
A:最初のリハーサルで、Orange Juiceの「What Presence」を演奏した。僕たちはまだお互いをよく知らなくて、フィーリングを掴む必要があった。the Stoogiesの「I Wanna Be Your Dog」、New Orderの「Blue Monday」、the Smithsの「How Soon Is Now?」も演奏したよ。

Q:バンドのDNAは最初からあったのですね。
A:そうだね。でも厳密には、演奏を「試みた」だけだ()。コピーしていた曲は、やがて別の何かに変化していった。例えば「How Soon Is Now?」は「Drive Blind」に変化した。

Qthe Stoogiesはシューゲイザーのシーンで巨大な存在だったのですか?Swervedriverも彼らの名前を挙げています。
ASwervedriverは「Shake Appeal(the Stoogiesの曲名)」から生まれた。彼らは当時、オックスフォードで最も大きなバンドだった。誰もが知る、まさに恐怖の集団だった!彼らを通して僕たちはthe Stoogiesを知り、「1969」や「No Fun」に惹かれた。でも僕たちは一番簡単な「I Wanna Be Your Dog」を演奏した。

Q:あの曲はパンクロックにおける「Iron Man」のようです。抽象芸術からの影響は如何でしょうか?Mission of BurmaGang of Fourも、抽象芸術の影響を公言しています。
A:僕たちのうち三人はNorth Oxfordshire Technical College and School of Artに通い、視覚、知覚、脱構築といった考えを学んでいた。その理論を音楽に適用させるのは、自然な流れだった。学校で素晴らしい本にも出会った。ジョンバージャーの「Ways of Seeing」、ロバートヒューズの「The Shock of the New」は80年代後期の斬新な思考を体現していた。芸術とは何か、そして僕たちは芸術で何をするか、ということを考えたよ。でもバンドのビジュアルを作ったのは、芸術学校に通っていなかったスティーブだった。彼が全てのジャケット写真を見つけてきた。部屋にはいつもアートっぽい写真が飾られていたよ。ナスターシャキンスキーやソフィアローレンの写真を使って、バンドのチラシを作った。アートとセクシーな女優は当時、僕らの常用手段だった。「Nowhere」のジャケットに使った写真は、アルバム制作前から持っていた。あの写真を見ながらレコーディングしたよ。

Q:ジェリコ・タバーンは音楽シーンの中心地だったと聞いています。ライドもライブをしましたか?
A:多くのバンドにとって、初ライブはあそこだった。僕たちはまだ四曲しかなかったから、時間を埋める必要があった。後に「Drive Blind」の轟音パートになる、「Mind Fuck」という曲を演奏したよ。当時はそれ自体が一曲で、もっとゆっくりしたテンポだった。「Chelsea Girl」「Mind Fuck」を五分ずつやって、「I Wanna Be Your Dog」、そしてまた「Chelsea Girl()フルボリュームで演奏するのは最高だった。それ自体が刺激になる。PAを利用して、ボリュームとノイズを使ったアイデアの断片を作っていったよ。

Q:同じシーンにいた他のバンドに対して、親しみを感じていましたか?
ASlowdiveLushChapterhouseは友達だった。シューゲイザーではないけど、Blurとも親しかった。グラハムコクソンからレスポールやチョーキングの魅力を教わったよ。「Going Blank Again」に表れている。全てのバンドはお互いを尊敬し合っていた。ライバルではなく、同じ地下に属する仲間だった。My Bloody ValentinePrimal Screamとも仲良くなった。皆が同じ目的のために努力していたよ。

Q:ライドはエフェクターを多用していたことでも有名です。初期の頃からそうでしたか?
A:使っていたけど、当時はシンプルだった。ボスの小さなマルチエフェクターを持っていたよ。ディレイ、コーラス、ディストーション、あと何か一つ入っていたな最大の衝撃はワウペダルだった。すぐにハマって、ずっと使っていたよ。今ではソロのブースト的に使っているけどね。ワウペダルで自分のスタイルを掴んだ。踏み込むほどに、段階的に盛り上がるのさ。

Q:「Nowhere」では、自分たちの美学をスタジオで追及しましたか?
A:最初のEPはデモの継ぎ接ぎだった。二枚目はスタジオに入って作った。四曲を完成させた後、フルアルバムに向けたジャムセッションを始めたよ。結局そのレコーディングからは何も使わなかったけどね。僕たちはコンソールで長い時間を過ごし、曲をコントロールするようになった。EPのレコーディングでは、エンジニアと口論になった。僕たちは間違っていると見られていた。やがてマークウォーターマンに出会った。僕たちが「Nowhere」の準備をしていたEMIスタジオで働いていて、同い年だった。彼となら上手くいくと分かった。彼は決してNOと言わない。むしろ「いいね、最高だよ!やってみよう!」と言ってくれる。「Nowhere」の功績によって、彼はエンジニアからプロデューサーに昇格したよ。ミキシングはアランムルダーがやってくれた。「Going Blank Again」は彼のプロデュースだ。あのアルバムは更なるステップアップになった。もっと多くの時間をコントロールルームで過ごし、Eventideのウルトラハーモナイザーをギターに使ったりした。スレーブのテープマシンを使い、逆回転やテンポ変化、二つの曲を繋げたりもした。「Nowhere」よりも、スタジオを楽器のように扱っていたよ。「Nowhere」はEPよりも洗練されているけど、核の部分ではリハーサルを捉えたものだ。

Q:ライブで再現するのは挑戦だったでしょうね。
A:一つの曲にはいくつものバージョンがあって、その中の一つがアルバムに採用される。ライブで演奏する際には、最初のバージョンに立ち返る。レコードと全く同じである必要はないよ。「Seagull」には複数のバージョンがあって、その中の一つがアルバムに採用された。でもライブでは毎晩のように変化していた。再結成のときにはアルバムを聴いたけどね。「Cool Your Boots」の出鱈目さを、もう一度学び直す必要があった。現在のツアーでは、新しい技術を利用しているよ。昔は自分たちの歌や演奏なんて聞こえなかった。ギターとドラムの轟音しか聞こえなかった。今ではイヤモニのおかげでクリアに聞こえる。昔よりずっと良い演奏ができているよ!

Q:コンパクトエフェクターへの回帰によって、ペダルボードはローテクになりましたよね。
A:最初の頃は、ボスのDS-1、クライベイビー、そしてローランドGP-16のラックマウントを使っていた。今はコンパクトエフェクターしか使っていない。ついに逆回転エフェクターも手に入れたよ。EventideTimeFactorを使えば、「Seagull」のイントロもレコードそっくりに弾くことができる。

Q:当時からずっと使い続けているギターはありますか?
A:リッケンバッカーの12弦ギターは二本とも使っている。「Seagull」や「Vapour Trail」をレコーディングしたギターさ。

Q:ギタリストとして、今後やってみたいことはありますか?
A:まさに今、巨大なモジュラーシンセを作っている。ギターを繋いでCVコントローラーのように使える。ニューヨークのSnazzy FXが作ってくれた。モジュールを学ぶのは楽しいよ。Make NoisePhonogeneがお気に入りさ。とてもワクワクしている。これを使ってレコーディングした音楽をリリースするつもりだ。

2016年2月7日日曜日

Trent Reznor Interview / Rolling Stone (2016.01.29)


同じく米Rolling Stone誌に掲載された、Nine Inch Nailsのトレント・レズナーによる追悼文です。幼い頃からのファンであり、ボウイと共にツアーした彼の想いが溢れています。

リリース日:2016126 
URLhttp://www.rollingstone.com/music/news/trent-reznor-recalls-how-david-bowie-helped-him-get-sober-20160126 

以下、筆者による訳。

ボウイのアルバムは、一枚一枚全てに思い出があるよ。レコードの全盛期、僕はよく友達の家に行き、彼が地下室に保存していたコレクションを聴いた。最初にハマったのは「Scary Monster」だった。そこから遡って、ベルリン三部作も聴いた。すごい衝撃だった。90年代の初頭、僕は観客とステージに立っていた。完全なるボウイ信者になっていたよ。彼にまつわる全てを読み込んだ。歌詞に隠れたヒント、謎めいた写真、雑誌の記事。僕にとって彼はどういう存在か?彼の音楽を通して、僕は自分と関わり、自分が誰なのかを理解した。何が実現可能で、何がエンターテイナーの役割なのか。そして、この世にルールなど無いと教えてくれた。まるで啓示だったよ。

そして90年代の中頃、彼から連絡を受けた。「一緒にツアーしよう!」どれほど光栄で非現実的だったか、とても言い表せないよ。実際に会った彼は、嬉しいことに、僕の期待を遥かに超える人物だった。魅力的で、お茶目で、満たされていて、勇敢だった。また新たな刺激を与えてくれたよ。

リハーサルに入り、どのようなツアーにするか話し合った。正直に言って、複雑な気持ちだったよ。当時の僕たちは、北米で彼よりも売れていた。でもデヴィッド・ボウイが前座をやるなんてあり得ない。彼は言った。「僕は人々が求めている曲を演奏しない。実は奇妙なアルバムを完成させたばかりなのさ。僕たちはベルリン三部作と、そのアルバムの曲を演奏する。望まれていることではないけど、やらなきゃいけないことだ。そして君たちなら、僕を毎晩驚かせてくれると信じているよ」噂に聞いてきた、彼の勇敢さを目の当たりにしたのさ。

全てのステージを一つの流れにした。まず僕たちが演奏する。次にデヴィッドが加わり、「Subterraneans」を一緒に歌う。彼のバンドも出てきて、全員で演奏する。そして僕たちはステージから降りる。ボウイが隣で「Hurt」を歌ってくれたことは、人生で最高の瞬間だ。最大の影響を与えてくれた人が隣にいて、僕がベッドルームで書いた曲を歌ってくれたんだからね。

彼に対する反応は、苦々しいものだった。真夏の野外ライブで、32オンスのビールを飲んだ観客は「Changes」を求めていた。ステージで繰り広げられる芸術作品ではなくてね。でも彼はやりたいことをやった。とても印象的だった。人々に見てもらい、お金を貰うとき、僕は今でもこの体験について考える。

当時の僕はメチャクチャだった。バンドの人気がピークに達していた頃で、僕の人格は破壊され、手に負えなくなっていた。僕に対する人々の接し方が変わった。ガス代すら払えなかったのに、いつの間にか満員のアリーナに立っていた。しかも彼らは僕のことを知っていると思い込んでいる。ステージ上の自分と、かつての自分との境目がぼやけ始めた。毎日を乗り切るために、僕はドラッグと酒で自分を麻痺させた。気が大きくなって、何でも対処できそうに思えた。バンドは巨大化したけど、人間としての僕を支える足場は壊れ始めた。どこまで悪い方向に進んでいるかは分からなかった。でも心の中では、こんなことが続けられるはずがなく、自己破壊に向かっていると理解していた。

僕が会ったとき、デヴィッドは全てを乗り越えていた。幸せで、満たされていた。彼の人生は平和で、素晴らしい奥さんがいて、愛し合っていた。彼と僕が二人きりになると、叱るわけじゃないけど、知性溢れる言葉を与えてくれた。「もっと良い生き方がある。最後に待ち受けているのは、必ずしも悲しみや死じゃないよ」

それから丸一年後、僕はどん底に落ち、全てから足を洗った。それまでに僕がとった行動、損なってしまったチャンス、そして周囲に与えた損害に気付いた。そしてデヴィッドと一緒にいた時期を思い出して、自分が100%の状態じゃなかったことを悔やんだ。「I’m Afraid of Americans」のビデオには、最悪だったときの僕が映っているよ。頭がいかれていて、自分という人間を恥じていた。だからあのビデオを見ると、複雑な気持ちになる。関わることができて光栄に思う一方、当時の自分には心底うんざりしている。未だに悔やんでいるよ。

数年後、ボウイはLAにやって来た。僕はどうしても彼に感謝したかった。妙に恥ずかしい気持ちで楽屋を訪れ、「お久しぶりです。僕はあのとき床に嘔吐した」と言った。その瞬間、僕は再び、温かくて優雅な愛情に包まれた。「あなたに伝えたいことがあります。僕は全てから足を洗って」僕が言い終わる前に、彼は強く抱きしめてくれた。「分かっていた。君ならできると僕には分かっていた。君なら抜け出せると信じていた」思い出すと今でも鳥肌が立つよ。僕の人生における、もう一つの最高の瞬間だ。

僕たちにはまだ、一緒にやることが残っていたと思う。彼は人生の相談相手であり、僕を気にかけてくれる父親のようだった。愚かさに溢れ、レベルが下がる一方の世界でも、偉大で妥協しない意思は生き続けることができる。彼はそう思わせてくれたのさ。

Bono Interview / Rolling Stone (2016.01.29)



129日に発売された米Rolling Stone誌のデヴィッド・ボウイ追悼号に掲載された、ボノのインタビューです。感動的ですよ。

リリース日:2016127
URLhttp://www.rollingstone.com/music/features/bono-remembers-david-bowie-he-is-my-idea-of-a-rock-star-20160127 

以下、筆者による訳。


僕はロックンロールスターのフリをしているけど、実際は違う。デヴィッド・ボウイこそが、僕の考えるロックスターだ。僕は今ミャンマーにいて、彼の死に対する世間の反応からは、少し切り離されている。でもスターマンがいない今、この空は以前よりずっと暗く見えるよ。

初めて彼を見たのは1972年のTOP OF THE POPSだった。彼は「Starman」を歌っていた。生気に満ち溢れ、聡明で、鮮やかだった。当時、僕の町に初のカラーTVがやって来た。そして彼こそが、カラーTVが必要な理由だった。僕たちの時代にとっては、彼がエルヴィスだった。多くの共通点があるよ。男らしさと女らしさの両立。完璧なステージ上の身のこなし。彼らは最初の輪郭を作ったのさ。今では当たり前になっているけど、彼らより以前には存在しなかった。

彼ら二人には、別世界からやって来たような雰囲気があった。ボウイと一緒にいれば、その世界に通じる扉と出会えるかもしれない。そんな漠然とした予感があった。「Life on Mars?」は10代の僕に対し、地球上の生命について問いかけていた。僕たちは本当に生きているのか?本当に地球がこの世の全てなのか?
ボウイが開けてくれた扉のいくつかは、他のアーティストに続いていた。ベルトルト・ブレヒトやウィリアム・バロウズ。そして彼が早くから注目していたブルース・スプリングスティーン。そして僕にとって最も重要な扉は、ブライアン・イーノだった。

自分をデヴィッドの友達と考えたいけど、どちらかといえばファンだね。「Achtung Baby」をミックスしている最中に彼はやって来て、ベルリンやハンザスタジオを紹介してくれた。僕たちは冗談を言い合った。ときには度が過ぎて、お互いを傷つけ合うこともあった。彼は自分の娘をスパイダーマンのミュージカルに連れて行った後に、気に入らなかったところを教えてくれた。彼のアドバイスは助かったよ。公演が始まったばかりの頃だったからね。

ここ最近、僕はブライアン・イーノとコンタクトをとっている。彼はデヴィッドからお別れの手紙を受け取って、僕にも見せてくれた。とても素晴らしい、面白い手紙だった。非現実的で、大胆で、まるで逃げ出す直前のようだった。ブライアンも僕も、亡くなる少し前からデヴィッドのことを考えていた。クリスマス休暇の間ずっと、長女のジョーダンと僕は「Blackstar」を聴いていた。彼女は2歳のときにデヴィッドと会った。彼からピクシーと呼ばれていた。そして生涯にわたる彼のファンになったのさ。

ボウイにはポップスターとピカソの二面がある。その丁度中央にいるときの彼が好きだ。曲自体はコントロールされているけど、録音はコントロールされていない。大衆主義と芸術の双方に、均等に接近しているときだ。「Blackstar」はかなり芸術寄りの作品だから、本来なら僕は気に入るべきじゃないのかもしれない。でも僕もジョーダンも本当に大好きだよ。

今年は彼女と二人で、彼の誕生日をお祝いした。そのときの写真を彼に送ったよ。長いメールと共にね。「Love and Fear」というマイケル・レウニグの美しい詩も付け加えた。「この世には二つの感情しか存在しない。愛と恐れだ」という一文がある。彼からの返事はなかったけど、僕のメールを受信してくれたとは聞いている。

作曲家や歌手として、究極的には、思考と感情が僕たちの強みだ。オリジナルな思考を持っていそうな人がいても、その音楽が持つ風景は大して独特じゃない。でもボウイの音楽が持つ風景は、他の音楽とは全く異なる方法で、僕たちに影響を及ぼす。目を閉じて、言語を忘れ、曲を感じ取る。「僕のどの部分が演奏されているのだろう」「その部分は、他の人にも演奏できるだろうか」と考える。

答えはノーだ。僕のある部分は、デヴィッド・ボウイにしか演奏することができない。だから今、その部分は空っぽだ。他のやり方で目覚めさせるしかないようだ。でも僕が14歳のとき、その部分は確かに一度目覚めたのさ。